Google
 

木村祐一

木村 祐一(きむら ゆういち、1963年2月9日 - )は、京都府京都市左京区出身のお笑いタレント、放送作家、俳優、コラムニスト。

吉本興業所属。愛称は「キムキム兄やん(キム兄)」「キム」。 現在の妻は女優の辺見えみり、義兄(妻の兄)はミュージシャン・音楽プロデューサーの辺見鑑孝。

血液型はAB型。京都市立西京商業高等学校(現・京都市立西京高等学校)卒。

口癖は「考えられへん!(声を裏返して叫ぶ)」「ありえへん!(左同)」いずれも、秩序や常識、段取り、気配りなどを無視する人間に向けて発せられる(ダウンタウン松本の「おちょこぶり」に対して発した事も。その松本は「『考えられへん!』は木村が作った言葉だと思っている」と語っている)。常にそういう物に怒っている男でもある。


【人物】
ホテルマン、染め物職人を経て、中学校の同級生(栩野進)と漫才コンビ「オールディーズ」を結成。
順調に人気を獲得していた矢先の1990年9月7日、相方が不祥事を起こし逮捕。これにより相方は所属事務所を解雇されコンビは解消。木村は予想もしない形でピン芸人の道を進むことになる。

当時、公私ともに行動をともにしていたいわゆる「二丁目軍団」は、リーダー格のダウンタウンをはじめとしてほぼ全員が、吉本の養成所NSC出身であるが、その中においては異例の、劇場の裏方(幕引きや進行)出身であり、その仲間外れ感をネタにすることもあった。

その後、交流のあったダウンタウンらを慕い1994年に東京進出。『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)で構成作家としてもデビューする。

現在に至るまで、松本人志の優秀なブレーンであるとともに、写真を使ったネタなどの多彩な芸風でピン芸人として活動を行っている。自分で撮った写真にコメントをつけて笑いをとる「写術」など。

松本を中心とした芸人の集まり(いわゆるダウンタウンファミリー)では兄貴的存在である。実際、松本より学年で一つ上であるため、私生活でも松本に指南する立場であるようだ。吉本興業では東野幸治はデビュー時期が近く、今田耕司や130Rは1年先輩となるが、年齢的に木村の方が年上(今田とは3つ、130Rとは1つ)であるため、テレビでの仕事でも露骨な後輩扱いはしていない。ちなみに、当初東京に進出したばかりの頃は東野幸治とコンビで仕事をしていたことがある。

ダウンタウンの後輩であるにもかかわらず年齢が一つ上のため、初期のころはダウンタウンに「さん付けさせて欲しい」と言われた。が、木村本人は「後輩ですからいいですよ〜」と言い断った。ちなみに木村は今もダウンタウンの二人を松本さん、浜田さんというふうに「さん付け」で呼んでいる。余談だが、木村本人は「ダウンタウンと同い年である」と主張している(「1月1日で年が明ける、という区切りがあるのに、4月1日で線引きするのはおかしい」と、ある番組で言っていた)。

松本をして、「俺のために生まれてきたような男」「何回人生やってきたんや」と言わしめるほどよく気がまわり、器用で芸人ばなれした知識と行動力を持つが反面、自分が出来るゆえに出来ない後輩には非常に厳しく、後輩からは怖い先輩として恐れられてもいる。だが、時にはズレた所で怒ることがあり苦笑する場合もあると松本が語った。松本グループでのその母親的な面倒見と気遣い、料理の腕などから今田・東野らからは「松本人志の嫁」、高須光聖からは「松本の第一夫人」とからかわれる。松本本人も「嫁にするならキムのような人がいい」とラジオで発言している。

気遣いの出来る繊細な性格ではあるが、その反面、短気でルールやモラル面が特に厳しく、ルールやモラルを守れない人間には粗暴なまでに怒ることから、(真偽は別としても)「伝説」には事欠かない。

過敏すぎる例として以下のようなエピソードがある。加湿器が欲しいため、千原ジュニアをつれて家電店へ買い物に。そこで気に入った加湿器を買おうと店員を呼び止めたところ、ブルーとピンクの色があると紹介されキレる。「いい年したおっさんがなんでピンクの加湿器を欲しがんねん!」と説教した。が、そのとき木村は真っピンクのシャツを着ていた。それに気づいたジュニアが慌てて止めに入ることに。このように、後輩だけでなく誰にでも説教をするが、ときにピントがずれていることがある。

趣味は料理でプロ並の腕前。『アフリカのツメ』『浜ちゃんと!』(いずれも日本テレビ系)などでその料理の腕を披露した。『めちゃイケ』の「やべっち寿司」でもコンビーフを使ったちらし寿司を作って殿堂入りしたが、作る前にもフリッターなどをナインティナインに振る舞い、絶賛された。ファミリーマートでは期間限定でコラボ商品が発売されることがある。木村の作る鍋料理は「キム鍋」とも呼ばれ、寸胴や材料持参で時間をかけてつくられるため味は絶品なので、予約を入れないと食べられないほど人気らしい。

結婚して子供をもうけたが2005年に2度目の離婚。2006年1月9日に『ダウンタウンDX』で出会ったタレントの辺見えみりと婚約。同日、合同記者会見を行い、入籍(自身3度目)を報告。ちなみに、婚約指輪は0.93カラット。ティファニーで購入。プロポーズは新宿外苑の外周の車中でした、とのこと。辺見とオススメのハンバーグを食べに行ったとき、辺見がそのハンバーグに感激して細かく崩して愛おしく食べる姿を見て結婚しようと決めたらしい。

妻のことはテレビなどでは「えみりちゃん」だが、家では「えみちゃん」と呼んでいるらしい。辺見は自身のブログで木村を「旦那はん」と呼んでおり、木村は辺見のブログに時々写真で登場する。また、『ダウンタウンDX』の特番などで夫婦共演することもある。ちなみに、2006年には自身の浮気騒動が報じられたが辺見えみりはその報道に対し全く相手にしてなかった。

「キムキム兄やん」と呼ばれるようになった由来は、大阪時代に出演していたダウンタウンがパーソナリティの『ヤンタン』のコーナー名で使われていたのをそのまま使われるようになったため。最近では義父の西郷輝彦にも「キム兄」と呼ばれて驚いたことがある。また先輩の明石家さんまも最初は「木村君」と呼んでいたが最近は「キム兄」と呼んでいる。

無類の地図好きであることを辺見えみりが新婚旅行先のハワイでの出来事として『ダウンタウンDX』の番組で紹介した。

街中でふと気にした場面を写真に撮って木村独自の目線でツッコミを入れたり漫談をする「写術(しゃじゅつ)」がライフワークとなっており、年に1度のペースでライブを開催している。『めちゃイケ』の「笑わず嫌い王決定戦」でもこれを披露し、和田アキコや磯野貴理子を唸らせた。

服を買うことが大好きで、要らなくなった服は多くの後輩芸人に譲っている。時々、後輩芸人を集めて時間制限つきで選ばせる内輪向けのイベントを開催している。要らなくなった服とはいえセンスの良い服がタダで手に入れられるため、後輩芸人からはそのイベントを「キムコレ」と呼ばれている。しかし松本からは「(私)服ダサオや」と呼ばれ、「東野と二人で服ダサオ・FとAや」といわれる。

以前は髪型をリーゼントなどにしていたが、ここ数年は専ら五分刈りにしている。

『ヨシモトファンダンゴTV』で放送されていた「木村web堂」では先輩芸人やニュースで話題になった人のモノマネを披露したことがある。

好きな酒は「GT」。バーでよく注文するらしい。しかし最近は体の調子を崩しあまり強いアルコールはドクターストップがかかっているらしい。

最近は役者としても活躍し、映画「ゆれる」での検察官役が北野武に評価され、彼が審査委員長を務める東スポ映画大賞、第16回の新人賞に選ばれる。


【エピソード】
・未婚時代、ナンパして部屋まで入った女がHさせないと言ったためブチギレたら、恐れて裸足で逃げた女が階段から転げ落ちた。松本はこの件を「木村が階段から蹴り落とした」と言っている。当時木村の住んでいたマンションにはメンバメイコボルスミ11も住んでおり、この時の木村の怒声を聞いて「このマンションにはヤクザが住んでいる」と思ったという。

・ピンになって東京進出当時、街でファンに「がんばってください」と言われた時「ほな、俺はがんばってへんのかい!」とキレた。

・前の妻とクルマに乗っていた時タクシーの運転手と揉め、罵詈雑言を浴びせたあげくに相手の顔にツバを吐き、怒り狂った運転手が「殺したる!」と追ってきたため警察署に逃げ込んでタレントをアピールして、パトカーで護衛してもらったとことがある。

・喫茶店でトマトジュースを注文したら、ものすごいトロピカルな飲み物を用意しているのが見え、その瞬間もうすでに「あれ、このテーブルですよね!なんやアレ!」とキレていたら、それがテーブルに運ばれてきた。ウェイトレスに声を裏返しながら「なにこれ!!」と聞き「は?イチゴ椰子ですが・・・」とウェイトレスが答えると「俺が言うたんはトマトジュースや!(指を折りながら)ト・マ・ト・ジュ・ウ・ス!イ・チ・ゴ・ヤ・シ!全っ然っ違う!」とねちっこく、かつ激しく抗議した。

・松本らと車に乗っていたら、前を走っていた車が「わ」ナンバーの軽自動車であったというだけで「しっかし、レンタカーで軽をあえて借りるかね!!」とキレた。

(出典:Wikipedia)


ほんこん(蔵野孝洋)

ほんこん(本名: 蔵野 孝洋(くらの たかひろ)、1963年6月16日 - 、大阪市立東淀工業高等学校卒業)は、大阪府大阪市平野区出身の日本のお笑いタレントである。現在は漫才コンビ130Rのツッコミ担当。吉本興業所属。血液型はB型。吉本総合芸能学院(NSC)の4期生。


【来歴】
・骨付きカルビの芸名で、NSCの同期である上ロース(現在の今田耕司)ともに「ダブルホルモンズ」としてデビューした。ダブルホルモンズ解散後、「ホンコン・マカオ」のホンコン(現在の板尾創路)からホンコンの芸名を譲り受け新たに「ホンコン・マカオ」を結成した。ホンコン・マカオ解散後に板尾創路と結成した130Rでは本名の蔵野孝洋を名乗っていたが、周囲からホンコンと呼ばれた(本名で呼ぶのは後輩のロンドンブーツ1号2号など極僅か)。

・1997年に芸名を平仮名の「ほんこん」に改名した。(元々カタカナの「ホンコン」を名乗っていたが、大阪ほんわかテレビのロケ中に姓名判断をしてもらい、結果平仮名の「ほんこん」の方が画数的に良いと言われた事から改名した。だが、本人は「ホンコン」だと、名前を落書きされた後さらに「ポンコツ」に書き換えられてしまったことがあったから平仮名の「ほんこん」に改名した、という話もしていたので、改名した理由はひとつだけではないようである。)


【人物】
・吉本興業発行の月刊誌「マンスリーよしもと」で、2000年から2002年まで「吉本ブサイクランキング」投票の3年連続1位に輝き、殿堂入りした。

・「ダウンタウンのごっつええ感じ」の企画で、香港が中国返還された時(1997年7月1日)に祝いのために駆けつけた。

・吉本興業のブサイクランキングの常連だが、地肌はかなり色白できれいである。体毛もほとんどなくスベスベらしい。ちなみに既婚者で子供も3人いる。また「急性吉本炎」でたまたまロケ地を通りかかった姉と甥(姉の子ども)も共演した。姉も彼に似ていた。

・少しお茶目なところがあり、メールアドレス交換をしたザ・ちゃらんぽらんの藤原一裕に、「僕ほんこん、よろしくね」というメールを送ったらしい。(ちなみに、「男前」と称される後輩芸人に対して、否定的なポーズをとるほんこんだが、藤原については「あいつは男前だ」と気に入っている様子である。)

・ややSっ気、ホモっ気があるらしく、酔って東野幸治や木村祐一、山崎邦正などの後輩にいやらしいお仕置きをしたことがあるらしい。特に山崎はお気に入りのようである。「かざあなダウンタウン」ではその話が発端で、ほんこんと山崎のホモビデオを撮るという企画が放送されたこともあった。

・面食いでかつて交際していた女性は美人が多く、妻も美人らしい。その妻からは「たかちゃん」と呼ばれている。

・台風になると何故か必ずダウンタウンの浜田雅功から「家流れてないか?」と電話がかかってくる。

・多くの芸人からは「ほんこんさん」と「さん」付けで呼ばれているが、何故かビートたけしや明石家さんまからも「ほんこんさん」と呼ばれている。

・意外ではあるが料理が得意であり、2006年10月8日放送の「やりすぎコージー・土曜婦人」での企画「やりすぎレストラン」では鰹出汁ベースの繊細な味の鍋とサラダを作り、トミーズ健に勝利した。

・知り合いと銀座8丁目に鉄板焼きの店を出したことを番組で話した。

・左利きである。

・本人はそれほどのダミ声の持ち主ではないのだが、大抵「ダミ声・全てに濁音をつける話し方」でモノマネされる。

・ブサイクで日本ではモテないが、太平洋の島々ではモテると自ら発言していた。

・酒豪らしく、プライベートでは焼酎・いいちこをよく飲んでいたらしい。度々TVでのネタにもなった。

・自他とも認めるブサイクだが、1年に1度クリスマスイブの夜に男前になる。(長渕や矢沢永吉そっくりになる)

・昔まだそんなに稼いでない頃、バイトしながらも後輩におごっていた。後輩たちと飲んでいた際、先に会計を済まし「後はみんなで楽しんでください。お前らのあしながおじさんより」というメモを残して帰っていった。

・昔居酒屋で宮迫博之と飲んでた際にヤンキーに絡まれた。ほんこんは「俺昔喧嘩強かったんやで、危ないから先に帰っときや」といい宮迫を帰らすが、気になった宮迫が店まで戻ると店前で土下座をして謝っていた。次の日宮迫ら後輩に「お前らなんかあったらいいや」と言い去ろうとするが顔の傷をジッと見られてるのに気づき「お前なにジーッと見とんねん!ワシの顔そんなにブサイクか?」と笑いながら言い去った。

・ドッキリでオール阪神・巨人のオール巨人から、「客の前でそんな態度してええと思ってんのか!そんなん人しておかしいと思わんのか!」と怒鳴られた時、「人としてはおかしいかも知れないが、自分のやり方としては間違ってないと思う」と半泣きで言った。これは爆笑を買うと共に、一部視聴者からは「自分の信念をつらぬいたのは素晴らしい」と絶賛された。

・イエスマンが大好き。千原ジュニアが知り合った当初、会話中に軽く「それ違うんちゃいますかー」とギャグっぽくつっこんだら「歯向かうんか!俺はなんでもハイハイっていう後輩が好きなんじゃ!」と怒った。

(出典:Wikipedia)

板尾創路

板尾 創路(いたお いつじ、1963年(昭和38年)7月18日 - )は、大阪府富田林市出身のお笑いタレント、俳優である。お笑いコンビ・130Rのボケ担当。吉本興業所属。吉本総合芸能学院 (NSC) 4期生。既婚。血液型A型。


【来歴・人物】
ケーキ店「パルナス」三国ヶ丘店(堺市北区)に勤める両親の息子として生まれる。10代の頃にケーキを持って島田紳助の家にいきなり押しかけ、弟子入りを志願したことがある。紳助には当時すでに弟子が1人いたため断られるが、吉本興業のタレント養成所であるNSCへの入学を勧められ、のちに同校の第4期生として入学した。

NSCでは「ホンコン・マカオ」というコンビを組み、「ホンコン」の芸名を名乗ったが程なくコンビ解消。のちに同期の蔵野孝洋(現・ほんこん)に「ホンコン」の名を譲り渡し、蔵野が2代目「ホンコン・マカオ」を結成。しかし2代目「ホンコン・マカオ」も長くは続かず、1986年6月に板尾と蔵野で新たにコンビ「130R」を結成した。

1991年よりフジテレビ系列『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演したのを機に、全国区にその名を知られるようになる。同番組内のコントの代表作に「板尾係長」に始まる「板尾○○」シリーズ、「シンガー板尾」などがある。『ごっつ』以後、ダウンタウンがメインを務める番組を中心に様々な番組に出演し、その飄々としたキャラクターで人気を博す。

1994年、当時14歳の女子中学生を相手に淫行に及んだとして、大阪府青少年健全育成条例違反容疑で逮捕された。これにより一時芸能活動を停止したが、松本人志ら芸人仲間たちの働きかけもあり1年後に復帰した(事件は相手の少女が別件で補導された際に発覚したもので、少女は板尾に対して18歳と自称したこと、合意の上での行為であったことなどから、所属事務所解雇という最悪の処分までは至らなかった)。ただし復帰後はお笑い芸人という職業柄、松本に収録中「よっ! 犯罪者!」と呼ばれるなど、愛のある「イジり」をもって迎えられた。また復帰後の『ごっつええ感じ』のコント「いたぴー」の中では、休憩中に『女子高生カタログ』なる雑誌を読んでいたことを指摘され、共演者のYOUに「またなの? また半年休むの? あんたにとってレギュラーって何なのよ!」と罵倒されている。

顔と芸風に似合わずド天然であり、数々の板尾伝説がある。

近年は深夜枠のバラエティ番組を中心に出演している。『虎の門』(テレビ朝日)の「しりとり竜王戦」ではそのシュールな発想力を発揮し、「永世しりとり竜王」として歴代最多の優勝回数を誇った。また2001年には、木村祐一と漫才コンビ「イタキム」を結成してM-1グランプリに出場、準々決勝まで勝ち進んだ。

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系列)では、しばしば「板尾の嫁」と称する外国人女性(「娘」と称する外国人の少女がいることも)と共に登場し、番組収録に無理やり乱入しては理不尽な出演料をせびる不気味なキャラを演じている。今現在「板尾の嫁」を名乗っている人物は3代目であり、初代は番組との契約解消後にヌード写真を写真週刊誌に披露した。ちなみに、板尾の本当の妻は日本人である。このシリーズでの怪演ぶりが各方面からの注目を集め、後にドラマや映画、舞台など、俳優としても活動。脇役ながら独特の存在感を放ち、映画『ナイン・ソウルズ』で共演した原田芳雄からは「板尾は良すぎる」と手放しの賞賛を贈られたほか、松尾スズキは自著の中で「(板尾は)お笑い芸人の中で圧倒的に芝居が上手い」という趣旨の記述をしている。

(出典:Wikipedia)

130R

130R(ひゃくさんじゅうあーる)は、吉本興業(東京)所属のお笑いコンビ。


【メンバー】
ボケ:板尾創路(いたお いつじ、1963年7月18日 - ) 大阪府富田林市出身。

ツッコミ:ほんこん(本名:蔵野孝洋(くらの たかひろ)、1963年6月16日 - ) 大阪市平野区出身。

ともに吉本総合芸能学院(NSC)の4期生で、同期には今田耕司がいる。


【概要】
1986年(昭和61年)6月コンビ結成。

そもそも「130R」は、鈴鹿サーキットにあるコーナーの名称。それを島田紳助が個人事務所の名前に使用していたのを板尾が気に入り了承を得て、それをコンビ名にした。

デビュー間もない頃、大御所の横山やすしと対面し、コンビ名の説明をしたところ、「130Rぅ!?緩やかなカーブやないかい!!」「わからん!ホンダとヤマハにせぇ!!!」と怒鳴られた。

ダウンタウンを慕って東京進出し、1991年より「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ系)にレギュラー出演。以降、全国に名を知られるようになる。

1997年の「ごっつええ感じ」終了後、テレビでは個人の活動が多くなっているが、ルミネtheよしもとなどの舞台の場ではコンビで漫才を行なっているほか、新喜劇にも出演している。


【結成まで】
ほんこんは今田耕司と共にダブルホルモンズというコンビでデビュー。しかし時間にルーズな今田にほんこんが腹を立て解散。同時期板尾はホンコン・マカオというコンビを組んでおり初代ホンコンだったが解散。「ホンコン・マカオ」の解散後ホンコンという名を気に入ったほんこんが板尾に譲ってもらいホンコンとして2代目「ホンコン・マカオ」を結成する。 2代目「ホンコン・マカオ」解散後、板尾がほんこんの家に遊びに行った際に、同じ布団に入りながら「相方おれへんやろ、一緒にコンビ組もうや」と言ったのがきっかけで130Rが結成された。なお、ネーミングが似ている日本のロックバンド175R(いなごらいだー)とは無関係であるが以前はこのことを130R側やタモリ等にネタにされたことがあった。

(出典:Wikipedia)

東野 幸治

東野 幸治(ひがしの こうじ、1967年8月8日 - )は、兵庫県宝塚市出身のお笑いタレントである。血液型O型。所属事務所は吉本興業。身長178cm。あだ名はひがしのり(髪の毛が濡れた時に頭に海苔がのっているようだったから)、チリ毛(天然パーマから)、白い悪魔(色白で人の不幸をよく嘲う事から)。


【来歴】
高校生の時に吉本興業の新人オーディションを受け合格し、そのまま芸人となる。なお、同じオーディションをリットン調査団も受けていた。一時期、大学に通う友人に乗せられ、大学受験を決意し芸人を休業するが、受験に失敗し、その後は芸人に本腰を入れる。

若手時代は心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動、ダウンタウンが司会を務める公開生番組「4時ですよーだ」などに出演していた。番組開始当初は素人参加コーナー「ダウンタウンの欲望」の募集の告知を呼びかける「欲望の男」だけの役であったが、次第に頭角を現し、最後の半年は今田耕司・石田靖らとともに司会を任されることとなる。また「4時ですよ〜だ」が放送されていた頃、今田耕司とのコンビで2丁目劇場の超若手が出演するライブイベント「2丁目jrたんけんたい」(上部組織にダウンタウンがメイン司会を務める「2丁目探検隊」というライブがあった)の司会進行を担当していた。

また、同時期に夕方の帯番組として放送されていた圭・修司会の番組素敵!KEI-SHU5では、白いランニングにトレパン姿の「セニョール東野」というキャラクターで各地をリポートするVTR企画も担当(このセニョールのキャラは、当時の舞台上でのネタで演じられていたものだった)。

「4時ですよ〜だ」の完了後、今田耕司等と共に、当時立て直しが急務となっていた吉本新喜劇の補強メンバーとして出向を命じられる。当初は吉本新喜劇行きをどうしても受け入れる事ができず、吉本興業を退社し植木屋に転職する事を考えていた。しかし、今田耕司等の熱心な説得により芸人引退を思い止まり、吉本新喜劇入りも受け入れる事になる。その吉本新喜劇では主に主役として出演する。その後、今田耕司同様、ダウンタウンを慕い、彼らが上京した1年後に東京都へ進出する。ちなみに今田耕司は数ヶ月先輩にあたる。NSC出身ではないため、4期生の今田耕司などには後輩として敬語を使い、数ヶ月東野の方が先輩であるが、ほぼ同時期に芸能界デビューした木村祐一とは同期として接し、5期生の辻本茂雄には先輩として振舞っている。同い年には山崎邦正(1年数ヶ月後輩)や雨上がり決死隊の蛍原徹(2年数ヶ月後輩)などがいる。

かつてテレビ番組「いろもん」で桂三枝から「バッテリー幸治」の芸名を与えられる。「明石家マンション物語」の番組内のみこの芸名を使用。当時、好感度ランキングベスト300に入らなかった事による。

最近は「行列のできる法律相談所」に出演。司会の島田紳助にチリ毛・チリチリなどと言われている。そこから発展して「チリチリドリル」と称して頭を女性ゲストの腕などにぐりぐりと押しつけるという一歩間違えればセクハラとして訴えられかねないような行動をするようになった。このように、ヒール(悪役)的なポジションに敢えて身を置く事によって、その本来の魅力を発揮する傾向にあるといえる。吉本きってのダーティーヒーローとの呼び声も高い。その一方で、島田紳助が謹慎中で番組をしばらく離れた折には、東野が代役を務め、番組最大の危機を見事に乗り切った。


【人物】
・今田と共に"Wコウジ"と呼ばれているが、ピン芸人である。

・中心にいるよりも少し離れた位置にいた方が実力を発揮するタイプであり、「ちょっと待って下さいよ」と話に割り込んでくる姿は他のお笑い芸人たちに多くものまねされている。

・今田耕司と共に「ひな壇芸人」のお手本的存在と言われている。

・細身で「かた焼きそば」「チリチリ」と表現される天然パーマ頭がトレードマーク。

・かつては視力が悪かったため、ハードコンタクトレンズを使用していた(ただし、明日があるさではメガネをかけていた)が、2004年にレーシック手術を受け視力回復に成功した。

・手堅い今田に対して破滅的な芸風の東野というコントラストで、よくコンビを組むことが多い。芸風としては、先輩芸人である笑福亭鶴瓶の「(困ったら)笑ろとったらええねん」というのを座右の銘としているようで、たびたび自分でもそのセリフを言っている。

・「ちょっと待って下さいよ」、「やらしい話」、「正直」、「頭おかしい」が主な口癖である。

・学生時代はかなりのスポーツ少年だったらしく、水泳のジュニアオリンピック候補に選ばれた事もある。
・1つ年長の兄とともに「宝塚のスポーツ兄弟」と呼ばれ、その評判は関西全域に轟いていたらしい。阪急沿線では十三駅近くに隣接しており有名な履正スイミングクラブ十三に通っていたという。
・そのせいか裸に自信があるようで、テレビ番組でよく全裸姿になる。本人いわく、抱かれた女は東野の裸を見て「まるでギリシャ彫刻みたーい」と驚くらしい。しかし最近は乳首が下がってきたことを気にして全裸になることに抵抗がでてきた。

・一時期、南北朝時代の武将である楠木正成の子孫を自称していたことがあった。

・ダウンタウンが最もイジリやすい(絡みやすい)と感じている芸人のひとりであり、そのためいくつもの番組で何回もドッキリにかけられた。東野の芸風を汲み、松本が「おまえなんか絶対売れへんねん!」と貶め、東野が「ちょっと待って下さいよ!」と反論する事で笑いが生まれるというスタイルが確立されていた。

・『ダウンタウンのごっつええ感じ』にはレギュラー放送化前の特番には出演していたものの、レギュラー放送開始しばらくは、「東野は協調性がない」との判断で参加が見送られていた。そのため、所謂他のダウンタウン・ファミリーの面々よりは全国区進出が遅れるかたちとなっていた。だが、板尾創路の一時的な番組出演休止の際にピンチヒッターとして1994年10月よりメンバーに加わり、満を持して本格的な全国区進出を果たす。数々の傑作コントに出演し、板尾復帰後も不動のメンバーとして定着した。

・大阪時代はダウンタウンと同じく、東野も今田耕司と共に関西ローカルの伝統的ラジオ番組『MBSヤングタウン』(通称『ヤンタン』)のパーソナリティを担当。もともと今田がサブで出演していたダウンタウン担当の木曜日から卒業独立し、新たに東野を迎えて金曜日を担当した。ダウンタウンの『ヤンタン』木曜日は岩石のように荒々しいハードな内容が特徴であったが、金曜日もその傾向を継いでおり、レギュラー出演していた加藤たか子(当時はアイドルグループLip'sのメンバーだった)は耐えられず、大阪府に向かう新幹線の中で血を吐いたことがある。

・仕事以外では芸人仲間とは殆ど遊ばないらしく、たまに千原靖史などの後輩を誘って食事に行っても、ずっと漫画や雑誌を読んで全く喋らないという。

・千原靖史とは「やりすぎコージー」の収録後に二人きりで食事に行くほど親密な後輩であるものの、靖史は東野に対し終始タメ口で、アダ名の「ひがしのり」呼ばわりである。だが、東野はそれに抗う素振りは見せない。番組中の企画「仁義なき派閥抗争」には東野をリーダーとする芸人派閥として『Teamヒガシノリ』が参戦。その構成員には靖史とライセンス(現在のザ・ちゃらんぽらん)の藤原が名を連ねた。胸に東野の故郷である「宝塚」と書かれたTシャツがトレードマークである。

・最近健康のためゴルフを始めたらしく、ナインティナインの岡村隆史をゴルフに誘ったが、岡村を担当していたキャディさんはコース上でゴルフクラブを放り投げるなど非常識な東野のことを嫌っていた。が、現在は蛍原徹や大山英雄も参加し、「東野ゴルフクラブ」を設立した。このクラブの教科書的存在が、いわゆるBIG3である。
・東野ゴルフクラブの主要メンバーは以下の通りである。
・出川哲朗
・蛍原徹
・原西孝幸
・大山英雄
・岡村隆史
・堀内健
・ゴルゴ松本
・堤下敦

・プライベートにおける東野は寝癖などをセットしない為、ゴルフ場に現れる彼の頭髪は岡村いわく「ホビーブラウンのような状態」になっているという(ナインティナインのオールナイトニッポンより)。また、岡村に偽物のローレックスをつかまされたことがある。

・「やりにげコージー」では箱庭を使った深層心理テストに挑戦。中央に広く空間がぽっかりと開き、構成要素や人物が誰も交わる事の無い東野の箱庭に、カウンセラーを含め一同は戦慄した。

・編集で自分の活躍がカットされる事が悔しく傷つく為、基本的に自分の出た番組のオンエアチェックは行わず、自分の脳内で自分が大活躍しているオリジナル編集版を製作し、それで満足しているという。

・格闘家のなかではジャンボ鶴田をイチオシ。今田も引くほどである。

・風俗が大好きで、時間帯は昼夜問わず舞台の合間(1時間)にも行くほど。ちなみに店に予約を入れるときの偽名(通称「風俗ネーム」)は「東田」である(「ノブナガ」で公言)。普段は街中でも変装する事はないが、このときはレイバンのミラーサングラスを着用する。

・「風俗で働く女性は背が低い」という自説「風俗嬢リトルガール説」を掲げており、それを証明すべく「やりすぎコージー」で東名阪の風俗店各10店舗の協力の下、検証を行った。その結果、風俗で働く女性の身長は、厚生労働省が公表する同年代の女性より、約1cm低いということが明らかになった。

・自身のファンであった女性と結婚、2人の娘がいる。知り合ったきっかけは、当時出演していた名古屋のローカル番組『正解るんです』に送られてきた一通のファンレターから。同封されていた写真を見て(毛皮を着ている写真。ちなみに、その毛皮は新婚当時住んでいたマンションの雨漏りが原因で、ダメになった。)即、連絡。ちなみに元奥さんとの初Hの時、東野に了承を得て今田が部屋に忍び込み、一部始終を覗いていた。そして、なんだかんだで結婚するものの、一度離婚。離婚の際の生活は悲惨だったらしく貸倉庫に住んでいたことを明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーで暴露した。その後復縁したものの、再入籍はしていない。娘達はインターナショナルスクールに通っており、英語はペラペラ。長女からは「ダディ」と呼ばれ、次女からは「ダディちゃん」と呼ばれている。ちなみに元奥さんから別れを切り出された時の言葉は「気持ち悪い」だった。これは東野の好きなアニメ新世紀エヴァンゲリオンのキャラクターのアスカ・ラングレーのセリフからとったものと思われる。
・ダウンタウンDXで関根勤を「理想の父親像」に挙げている。ちなみに関根の娘である関根麻里もインターナショナルスクールに通っていた。
・離婚は東野家が一軒家を購入してから三ヵ月後のある日に突如嫁の側から切り出された。「離婚は以前から考えていたが、家を買って何とかなると思ったけど結局ダメだった」、「お父さん(東野)は本当に人なんか好きになった事ないんだよ」とは嫁の弁。
・離婚してもなお同居しているのは、娘の教育のためということになっているが、娘が母親に「お母さん、私のために無理してあの人(東野のこと。娘にとっては実の父親)と一緒に暮らさなくてもいいよ」と言っているのを東野が聞いてしまうなど、予断を許さない状況である。東野曰く今の状況を「ガラスの家族」と呼んでいる。
・妻はすこし変わり者であるらしく、東野のファンサイトの掲示板に妻と名乗り『降臨』してみたり、「霊が見える」などと発言したりするエピソードがある。
・長女には実の父であるにもかかわらず「東野さん」と呼ばれているらしい。(やりすぎコージー2006年12月16日放送より)
・ちなみに長女はかわいいらしく、街を歩いていると芸能プロからのスカウトによく会うらしい。一方、父である東野はタレントなどではなく地道な職についてほしいと考えているという。
・嫁は司法試験合格を目指し目下独学中であるという。
・ドラマ「花より男子2」の最終回のワンシーンには東野が救助隊員役で唐突に登場。これは次女が前作よりドラマの熱心な視聴者だったという話が運良く関係者の耳にとまり実現した特別出演である。撮影の際には家族全員で駆けつけたという。ちなみに、東野が発した台詞は三つだった。
・娘が通っていたインターナショナルスクールにはデビュー前の宇多田ヒカルも通学しており、参観日に学校に来た東野にサインを求めたら無視されたとデビュー直後、録音で出演したファンキーリップスで暴露していた。

・冷めやすい性格からか、今田や松本人志、島田紳助らから「愛情がない」「冷酷」「他人の心にスタッドレスタイヤを履いて踏み込む」「本気で人のことを好きになったことが無い」「人の話に興味がない」「家では換気扇の絵ばかり描いている」などとネタにされ、それを実証するようなエピソードもいくつか語られている。
・例えば亀の死骸をゴミ箱に捨てた。という噂が流れていたが、病気になった亀を病院に連れて行くことに不満を感じつつも、「娘の教育のことを考えて」(本人談)、病院につれていったというのが真相だ。
・千原ジュニアが交通事故を起こし入院していた当時、東野は見舞いに訪れた際に「美味しんぼ」の単行本を土産に差し入れた。だが、未だ重体だったジュニアは摂食が困難であり、点滴や流動食から栄養を摂っていた状態だった為、まったく笑えないジョークとなってしまった事がある。

・やりすぎコージーのM(みうち)-1グランプリにて、出場芸人の父親のダメぶりを見て、「ウチなんかもっとひどかったよ」とコメント。難波花月にホステスを連れて来場するなど、家庭を顧みない破天荒な父親だったことが、現在の性格に影響を与えていると思われる。

・2000年には小説『泥の家族』で作家デビューを果たしている。内容に関しては「七割が作り話で三割が実話」とコメントしている。

・性格を示すエピソードの一つに、芸人になってからつきあい始めた女性との初デートで漫画喫茶に行き、3時間無言で漫画を読み続け、「芸人やったらちょっとはしゃべってよ!」とキレられたという話がある。
・その漫画好きは有名で、過去に「Matthew's Best Hit」でもその片鱗を垣間見せた。現在は「月刊ホビージャパン」にて「東野幸治のまんが大学」というコラムを連載中。東野が愛読する漫画を思い入れと共に紹介する内容である。ちなみに、嫁も一時期は「王家の紋章」にハマり、家中がエジプトに関連するモノだらけで溢れかえった事があるという。
・また、主に芸能界にまつわるゴシップ情報の収集も趣味の1つである。これらの点では今田耕司も概ね共通しており、お互いの情報交換は欠かせないという。今田耕司とともに「ゴシップ兄さん」とよばれることも。

・意外なところでは日本のロックシーンにも関心を持ち、「ROCKIN'ON JAPAN」や「snoozer」を愛読する。くるりの岸田繁の発言がお気に入りらしい。

・一般的に想像できないかもしれないが、山崎邦正、森三中の黒沢、アンガールズなど、多くの後輩や若手の芸人にリスペクトされる存在である。

・内村光良からは若手時代から妙に気にいられており、何度か共演している。しかしウンナンの番組で東野が出たコーナーはどれも短命で、「俺もウリナリファミリーやのに」と愚痴っていたことも。「ウリナリ」における内村・東野コンビのコーナーで最も長寿コーナーとなった「シャドウマン」は子供たちに全身で様々な影絵を見せるというコーナーだったが、子供たちからは「帰れ!」「死ね!」と野次を飛ばされたり、子供たちから影絵のリクエストを聞くと「ウンコ」と無理難題をリクエストされたりと散々な目に遭っていた。怒りが頂点に達した東野は子供たちに制裁を加えようとして内村に止められたこともあった。

・1995年の「FNSの日・1億2500万人の超夢列島〜そのうちなんとか…23時間」の料理コーナーにて、同時中継されていたマラソンでトミーズ雅が完走しスタジオ内が感動で包まれているところ、東野が突如、炊飯器を開けごはんを食べだした。それを見た笑福亭鶴瓶が激怒したが、鶴瓶に対して、「わしかて飯食うわ!!」、「どうでもええんじゃ!!」と逆ギレした。

・一方、1997年に放送されたテレビ朝日の特番「27時間チャレンジテレビ」では鶴瓶、今田、そしてビートたけしと共にブリーフパンツ一丁のスペシャルユニット「ブリーフ4」を結成。このとき居酒屋トークで酒を飲みすぎ、生放送中にも関わらず完全に泥酔した鶴瓶は、その後に訪れた深夜の故・丹波哲郎邸で暴走。我を失ったままブリーフを脱ぎだし風呂場や庭で脱糞を試みようとするが、東野らの厳しいツッコミで最悪の事態は避けられた。この「ブリーフ4」にまつわる一部始終は、今もなおコアなお笑いファンにとって伝説として語り継がれている。

・大御所を大御所として扱わず接する傾向は鶴瓶だけにとどまらず、萩本欽一との共演時も遠慮なく激しいツッコミを繰り返した事もあった。だが、逆にこれは萩本にとって好印象で、芸人としての東野を高く評価しているという。だが、「ひがしの」という名前は覚えてもらえず、誤って「とうの」と呼ばれている。

・2006年3月30日の「新どっちの料理ショー・ラーメン巌流島外伝・三国志」(よみうりテレビ)では前身の新テンベストSHOWを通じても初となる3キッチン制を採用して開催された(関口宏→レッドキッチン・麺屋武蔵、三宅裕司→イエローキッチン・柳麺ちゃぶ屋、東野→オレンジキッチン・なんつっ亭)。ただし、東野がこの番組を私物化状態にしたことにより、視聴率がジリ貧状態となり、同番組の打ち切り状態となってしまった。詳しくはラーメン巌流島を参照のこと。

・井上公造から「東野さんの仕事の量と日本の景気は連動している」との説を言われたことがある。理由はテレビ局側の立場に立つと、大御所芸人は景気が悪いからといって降板させることはできなく、また若手芸人はギャラが安いので景気が悪くても使えるため、東野のような中堅芸人が景気が悪い時に一番切りやすいからである。実際2001年頃のデフレ不況の時、東野はレギュラーが8本がなくなった事があり、本人もこの説を支持している。ちなみに景気が回復した現在、東野の仕事は順調である。

・アイドルなど、チヤホヤされることが最初から決まっている立場の人間に極めて厳しい態度を取る。特に不思議系アイドルには厳しく、鈴木蘭々と共演したときは「なんで?自分、おしゃれ情報発信基地やん!」というセリフを何度も繰り返し、追い込もうとした。雛形あきこがまだバラエティー慣れしてないころに共演したときは「いや、わからないじゃなくて何かしゃべってくださいよ」と何度も繰り返して追い込んだ。今田はこの「東野が同じセリフを繰り返してるとき」はキレてるときと言っている。ただし、これらはあくまで他のパーソナリティーからのツッコミによって番組は進行することが前提での話であり、番組を破綻させるような行為はしない。また、「ごっつええ感じ」での「キャリー東野のアイドル虎の穴」のような肉体的にアイドルを痛めつける企画は東野が適任であった。

・だが、近年にはポッキーのCMでの新垣結衣のあまりの可愛さにベタ惚れした。自身がメインを務める番組「お笑いワイドショー マルコポロリ!」ではその権限を行使し単独インタビューを行った。自分の娘ほどの年齢の新垣に自分を事を「お兄ちゃん」と呼ばせ、「こんな仕事やっとったらダウンタウンさんにしばかれるわ!」と漏らしつつも、かつてどの番組でも見せた事の無いほどのデレデレぶりを披露していた。


【芝居】
・コントの経験は豊富なものの、シリアスな芝居をさせると途端に大根役者になる。
・「ダウンタウンのごっつええ感じ」では彼の演技力を鍛えるためのコーナー(コーナー名は「龍としのぶ 俳優養成テレビ小説」)まで作られた。この企画では東野がセリフを言うシーンにだけ、台本に書かれている本当のセリフを字幕スーパーにして、画面下部に表示していた。これにより、ストーリーだけを見ればギャグの無いシリアスな筋書きのドラマなのであるが、本人が劇中で発するセリフが台本のそれとは全然違うことがマルバレとなり、視聴者の笑い(失笑?)を誘発するという仕掛けが施されていた。
・その後2001年に「明日があるさ」で久々のドラマ出演を果たしたが、演技力は全く成長しておらず、終いには彼の演技のあまりの酷さに他の共演者のNGを誘発する始末となった(ちなみに撮影初日のシーンで出したNGは8回)。そのため、本来ならNG同然の箇所も見受けられるが「これ以上の演技力は求められない」として放送されている部分もある。ガチガチの動きは浜田曰く「東野だけ時代劇だった」とのこと。浜田がアドリブで東野に振った際には驚愕して固まってしまったそうである。
・若手の頃Vシネマに出演し、ベッドシーンで騎乗位を行ったが、ガチガチで「高い高い」のようになっていた。

・2004年に子供向け特撮ドラマ「戦隊シリーズ」の司令官役での出演オファーが来ていた事を自身の番組内で公表していたが、これは東映制作のスーパー戦隊では無く、以前司会をしていた「イカリングの面積」の制作局のテレビ愛知と松竹制作の「魔弾戦記リュウケンドー」であった模様。後にこの役は諸処の事情から同じ吉本興業所属の清水圭が演じる事となった。

・そして其れから3年後の2007年に医学番組にアシスタント役として登場している福井未菜が子供向け特撮ドラマ「スーパー戦隊シリーズ」の第31弾・獣拳戦隊ゲキレンジャーのゲキイエロー・宇崎ラン役として出演する事が決定し本人も驚いていると言う。

・しかし吉本新喜劇などコメディの舞台では独特の存在感を発揮する、不思議な人物である。

・ちなみに、尊敬する役者は萬屋錦之介である。

(出典:Wikipedia)

今田 耕司

今田 耕司(いまだ こうじ、1966年3月13日 - )は、大阪府大阪市中央区谷町出身のお笑いタレント。吉本興業所属。愛称は「今ちゃん」。血液型A型。 清風高等学校定時制卒。 吉本総合芸能学院の4期生でピン芸人である。


【人物】
・実家は導善寺という浄土真宗のお寺(子供の頃はクリスマスをやってくれた)。父は七三分けの髪型で、会社員と住職を兼任。寺はラブホテル街のど真ん中にあり、彼女とホテルに初めて行ったらフロントのおばさんに「大きなったなぁ」と言われて恥をかいたことがある。また、父親の誕生日は12月25日(クリスマス)。

・小学生時代のニックネームは「ミッキー」(当時はミッキーマウスに似ていたらしい)

・中学生の時に家出をして島根県で保護されたことがあり、その日は出雲警察署に一泊したことがある。

・先輩の浜田雅功の母校であり、全寮制の日生学園第二高等学校で学んだこともあるが、全寮制の禁欲的な生活に耐えきれず、脱出に成功し退学した。今田がいたころは朝5時起床など凄まじく厳しい生活を義務付けられており、校外への外出は月一度の帰宅時以外許されない。また寮生活は、上級生が下級生を奴隷のように扱うような校風であったらしく、強制的な同性愛行為などもあったらしい。今田が学生時代に最も屈辱的だったのは、先輩の自慰行為の際のエロ本のページめくり役だったという。後に退学した一番の理由は、寮内で男子生徒同士の性交を目撃してしまい、そのうち性欲の抑えが効かない先輩に、貞操を奪われるかもしれないと恐怖するようになったからと告白した。生活のあらゆる面で厳しく管理されており、「角砂糖一個でクラスをシメれた」と今田が語るように嗜好品も厳しく規制されていた。

・その後、清風高等学校定時制に入学。昼間は日本一若い店長になる事を目標にしてラーメン屋で働いていた。ちなみに、清風高校時代のニックネームは、「ださ・ださお」。日生学園を退学(脱走?)直後、丸坊主頭だった為、清風高校の先輩達に「ださ!!!」と言われ、このニックネームが付いた。

・教師達に対して本人は普通に接してるつもりなのだが、なぜか目の敵にされることが多く「いつか絶対お前を退学にしてやる」等の言葉を多く投げつけられる。しかし、退学処分になる事無く無事清風高等学校定時制を卒業した。

・後輩芸人からも慕われ、プライベートでは仲間を集めて「コージー's ナイト」と称した飲み会を開催する事もある。

・極度のきれい好きであり、酔って自宅に戻った後でも部屋の掃除と洗い物は欠かさない程。掃除グッズおたくである。

・好きな食べ物は、バナナ。

・兄と姉がいるが、仲が悪いらしい。ラジオで松本人志に「兄ちゃん蒸発したときも笑ってたで」と暴露され、「もう家帰られへん・・・」とうろたえていた。

・独特の顔立ちから魚顔(特にフグやハリセンボンなど)と言われることが多く、IQサプリでよくネタにされる。また、同番組では独身である事を問題に取り入れられたり(お見合い、結婚運など)もする。

・「知ったかぶりクイズ!あなた説明できますか」で公表したように、独身未婚。

・子供好きで東野からは「吉本のマイケル・ジャクソン」と呼ばれている。

・渋谷区の高級マンションに住んでいるらしい。その概要は、
・書斎には好きな漫画が並べられており、パソコンがある。
・リビングにソファーがあり、革張りである。
・トイレにブルース・リーのフィギュアが飾ってある。

・マジカル頭脳パワー!!に出演していた時、しりとり系のゲームで自身が「り」で回ってきた時によく「リカちゃん人形」と答えていた。

・「たけしの誰でもピカソ」のお笑い居酒屋で、出演していた前田健からハーフの女の子を狙っているとばらされた。ハーフを狙う理由は、どうしても外国の女性と付き合いたいが、それではハードルが高すぎて無理であり、ハーフならば可能性があると考えたからとのこと。

・ラジオ番組で嘔吐したことがあると、『行列のできる法律相談所』で暴露された。

・突然何の脈絡もなく「・・・ぁざみ!」と叫ぶ一発ギャグがある。

・流行語を狙って、「はぁ〜(ほぉ〜)なんとな。」っていうギャグを考えた。

・陰茎のサイズは7cm。

・2006年陣内孝則の誕生日会では今田耕司が司会をし、50人の芸能人が駆けつけた。

・血液型については、血液検査で判明するまで本人は「O型」だと思っていた。実際、プロフィールには長らく「O型」と記されていた。


【趣味】
・趣味はピアノで、テレビ番組で坂本龍一の「Merry Christmas Mr.Lawrence」や久石譲の「Summer(『菊次郎の夏』テーマ)」を演奏した事もある。テイトウワのプロデュースで「KOJI1200」(後に「KOJI-12000」)として歌手活動を行っていた頃のインタビューではニューウェーブへの造詣の深さが語られており、音楽的なセンスを持ち合わせている事が伺える。またビートたけしとも交流があり、たけしからピアノをプレゼントされた逸話は有名。

・格闘技好きとしても知られ、パンクラスの道場に足を運んでは身体を鍛えている(これが縁で、パンクラスに参戦していた頃の須藤元気が『誰でもピカソ』に出演した事があった)。かつて「高田道場」に準えて「今田道場」と冠した集団を作ろうとしたことがあった(Tシャツを作って後輩に配った)。2006年から松本晃市郎<徳島県出身、元NSC生徒>という選手がパンクラスに「今田道場」所属として出場しているが、詳細は不明。

・アダルトビデオ好きとしても有名。アダルトDVDを大人買いし、店員に「本当にエロイですねー」と言われたことがあると某番組で語った。寝室には芸人達の間で「今田コレクション」と呼ばれる膨大な量のソフトがあり、AV友達の歌手・福山雅治とは時々交換などをしている(文化放送『カモンファンキーリップス』にてゲストの福山が事実を認める)。余談であるが福山とは1992年に自身のラジオ番組にゲストとして招待して以来の古い付き合いがあり、1998年リリースのアルバム「SING A SONG」では収録全曲のレビューを執筆した。

・芸能ゴシップが大好きであり、東野幸治と共に「吉本のゴシップ兄弟」を自称している。「今田の兄貴は難しい漢字は全てゴシップ誌で学んだ」とは東野の談。

・大の桜田淳子のファンであることを番組で明かした。

・自宅に漫画を読むためにしつらえた部屋を持ち、複数の雑誌も購読している漫画愛好家。新世紀エヴァンゲリオンのマニアとも自負しており、「(劇場版が公開した時は)オタクと一緒に並んだで〜」と某番組内で言っていた。しかし東野が「綾波レイちゃん可愛いんですよ」と発言したときは「気持ち悪っ!」とつっこんでいる。また、AKIRAのフリークであり、自分は超能力が使えると思っており、その登場人物の金田などを始め、昭和のヒーロー物のフィギュアなども所有している。


【デビュー〜現在】
・「お前は将来、絶対に犯罪者になる」と言い放った教師に復讐するために芸人を目指し吉本総合芸能学院(NSC)に入学。

・NSCでは4期生で、同期に130Rのほんこんと板尾創路がいる(只、年齢は上であるため、『ほんこんさん』、『板尾さん』と呼ぶ。)。東野幸治によれば、NSC時代の今田・ほんこん・板尾は、他の受講生達が積極的に授業に参加したり、仲良しグループを作り遊んでいたりする中、教室のそれぞれ別の隅にポツンと1人で立っていた3人であったとの事。その東野幸治と共に"Wコウジ"と称されているが共にピン芸人である。

・デビュー間もない頃、ほんこん(現130R。当時の芸名は「骨付きカルビ」)と「ダブルホルモンズ」というコンビを組んでいたが、時間にルーズな今田に腹を立てたほんこんが、ある日今田の家に訪ねた際に今田がバドワイザーのミニボトルを片手に「酔うた〜。孝ちゃん何やった?今日?」という姿を見て諦めて、「俺たち休もうか」と切り出し、そのまま解散。

・東野幸治の嫁の女友達を紹介してもらい、その後交際。激しいH及び今田の性器が思いのほか大きすぎた為(本人談、挿入後あまりにも気持が良かった為、大きさが倍になった。)彼女の性器を破壊(ベリッと音がしたらしい。)、病院送りへ。その後、別れる。そのトラウマからか、元彼女と東野の嫁が一緒に映画「もののけ姫」を見に行った際、元彼女が映画のもののけを見て今田の性器を思い出し、頭をかかえて「ぎゃー」と絶叫したという。東野幸治曰く、「今田さんのチンポはもののけ」(ラジオCome on FUNKY Lips!にて)

・「4時ですよ〜だ」(毎日放送)などでの共演を経てダウンタウンの弟分的な存在となり、以後さまざまなテレビ・ラジオ番組でダウンタウンのスーパーサブという役どころを務める。ダウンタウンが東京に進出したあと、今田以下、所謂「二丁目軍団」は居場所がなくなってしまい、会社から「新喜劇」への出向を命じられ、当時旧態からの改革を模索していた新喜劇に参加。かならずしも本意ではない出演ではあったものの、時には座長として舞台をこなす日々が続く。それまでは二丁目中心で仲間内としか仕事をしていなかったが、この時期に吉本の先輩芸人などと交流し、人脈を築くことができた。その後「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジ系)でようやく東京に呼ばれ、その出演を機に全国区タレントに。

・ダウンタウンと初めて仕事をした際に大遅刻をしてしまい、本気で浜田雅功から東野と共に鉄拳制裁(浜田曰く、先輩芸人の怒りを静める為にわざと殴った、と後で今田にフォローを入れているが、一瞬「まあええわ」と許して背中を見せ安心させた直後に振り返りざまに腹に蹴りを入れるという、精神肉体に最大限にダメージを与える浜田のドSっぷりが伺える))を受けて以降時間を厳守するようになった。

・2004年の島田紳助謹慎騒動に伴い、幾つかの番組は島田の代役として今田耕司に白羽の矢が立った。「開運!なんでも鑑定団」での代役司会ではテレビ東京の菅谷社長から絶賛された。

・2006年1月放送、TBS系「お笑い国盗りクイズ!!」で司会を担当。

・2007年3月7日から不定期の特番として放送されていた「今田ハウジング」が水曜8時枠でのレギュラー放送が決定。自身初のゴールデンでの冠番組となる。


【同業者からの評価】
・『ごっつ』のコント、「MR.BATER」において松本人志から「そんなんやから週刊誌に『ダウンタウンの腰巾着』て書かれるんや」「二線級のタレント」などとからかわれたことがある。しかし実際のところ、今田に対する松本の評価は「生涯で稼ぐ金額は今田の方が(松本自身より)上やないかなあ」と言わしめる程高いものである。

・2000年9月に、フジテレビの「明石家マンション物語」代表として、明石家さんまらと「めちゃイケ」内のコーナー「しりとり侍」に出演したときは、さんまとの丁々発止のやりとりでレギュラー陣を圧倒し、「さんま兄さんはすごいが、それを光らせた若頭(今田)があってこそ」と感心させた。またナインティナインからは「お笑いお化け」とも称される。

・ガダルカナル・タカは今田をライバル視しており、やしきたかじんの番組で「芸能人の中で、この人には勝てないと思うのは誰?」という質問に今田を挙げている。また、今田が若手時代のころにタカが大阪の番組で共演し、「東京の番組には、来てもらいたくないなあ」と今田の実力を高く評価していた。

・「やりすぎコージー」に寺門ジモンが出演した際、「リーダーがよく、『今田は天才だ』って言ってるよ」と、ダチョウ倶楽部のリーダー・肥後克広も、今田のお笑い能力を絶賛していることを本人に明かした。その際今田は、恥ずかしそうに流していた。

・土田晃之・品川祐など後輩芸人からも、実質的な相方・東野と共に「『ひな壇芸人』のお手本的存在」と言われ尊敬されている。土田は二人について「今田さんや東野さんと絡むと、僕がどんなにすべってもあの二人が面白くしてくれるからやり易い」と発言している。また「銭形金太郎」において、ロケ先の子供からの「一番面白い芸人は誰?」という質問に対して「I・Kさん」と回答している(ちなみに一番面白くないのは「A・MAX」とのこと)。彼ら若手お笑い芸人の飲み会では、今田の凄さを語り合うだけで数時間盛り上がれる程らしい。

(出典:Wikipedia)

浜田 雅功

浜田 雅功(はまだ まさとし、1963年5月11日 - )は、日本のお笑い芸人、俳優、歌手である。戸籍上の表記はM田 雅功(「浜」の字が異体字)。愛称は浜ちゃん。身長165cm。体重50kg(公称)。

大阪市浪速区生まれ、兵庫県尼崎市出身。吉本興業所属。日本を代表するお笑いコンビ・ダウンタウンの一人であり、ツッコミを担当。相方は「松ちゃん」こと松本人志。血液型はA型。趣味はゴルフ。

妻はタレントの小川菜摘で、これまでに1991年と1994年に2男をもうける。


【人物】
・出版物や声優などタレント活動以外では「浜田」ではなく、戸籍上の表記である「M田」でクレジットされる。

・お尻の調子があまり良くなく(痔ろう)、常時青い座布団を敷いている。これは、テレビ番組やロケ時など、椅子などに座るシーンで確認できる。それが原因かは不明だが、番組中おならをすることが多くよく相方の松本人志から突っ込まれる(しかし松本も負けず劣らず、よくおならをする。おそらく芸能界一おならをするコンビで、「芸能界のワンツーヘニッシュ」や「工業団地・尼崎の公害被害が原因」などとネタにしている)。また浜田の屁の臭いは激烈で、松本に「最初鼻にウンコ付いてんのかと思った」「嗅ぐと記憶が消える(『浜田の屁を嗅ぐ度に思い出が1つずつ消えていく』)」「家に帰ると浜田が屁をした時間で時計が止まってた」「生まれてから一度も日本語を喋ったことのない外国人が『クサッ』と言った」「毛穴からニューっと入ってニューっと入って、中でボッボッとなる」等ギャグにされる程である。またダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!にて「無人島になにか1つだけ持っていけるとしたら」の質問に「青い座布団」と答えた(痔になる前の若いころの同じ質問には「舎弟」と回答している)。

・ジョージアのCM出演経験があるにもかかわらずコーヒー嫌いでも有名で、子供っぽい食べ物が大好きなため(ハンバーグ、からあげ、メンチカツ、焼きそば、ミルクティーなど。中でも焼きそばが一番好きらしい)、松本から「味覚バカ」「味覚が中学生」「ハンバーグに目玉焼きがのっていればテンション上がる」などと揶揄されている。ちなみに最近食べて感動した物はメガマック。トマトが苦手。

・絵が下手で、よく松本から「目がおかしい」と言われ、笑いのネタとして描いた絵を使われる機会が多い。しかし、松本は浜田の絵をバカ画伯と笑う一方で「浜田は絵は下手やけど、人の話を聞いた時に頭の中にちゃんと絵がかけてる」と賞賛している。

・目が回らないことも有名で、回転椅子に乗って百回椅子を回された時には、口では目が回るとは言いつつも、その直後の走行においてはまったくそれを感じさせないような直進をみせた(自律神経が壊れているという疑惑がある)。

・松本からは「サルの子」「チンパンジーみたいな顔」「子ゴリラ」「くちびるオバケ」「くちびるゴリラ」などと揶揄される事がある。また、素で不機嫌そうな顔は「ビーフジャーキーの天狗みたいな顔」とも揶揄された。

・本人曰く、妻(小川菜摘)からは家で「マーちゃん」と呼ばれている。新婚当時は「ピーちゃん」(ヒヨコをつぶしたような顔をしているから)と呼ばれていた。

・先輩でも容赦なく平気でドツいたり、タメ口をきいたり、呼び捨てにしたりして突っ込みを入れることから、志村けんに「俺でもいかりやさんの頭を叩くのに何十年もかかった」と言われた事がある。 ただし勿論収録外では礼儀正しい対応を尽くしている。

・ふくらはぎが非常に発達しており、松本に「ガンダム」「焼きタラバ」「石鹸が入ってる」といわれたことがある。

・口や鼻、喉の感覚が鋭敏らしく、臭いものを嗅いだ時などはもちろん、鼻こよりや口に異物を入れるなど、ちょっとした事でよくえづく。ガキの使いの罰ゲームとして、このえづきで音階を収録して編集し、気持ち悪いカエルの歌などを作ったことがある。ちなみに、今までの人生で一度も痰を吐いたことがないらしい。

・本人はイメージと違い酒が飲めないらしい。しかしビールやブランデーのCMに出演したことがある。

・駅のトイレで小便をしていて、隣にいたまったく知らないおっさんが屁をした際に職業病のせいか「おい!!」と言ってしまったことがあるらしい。

・テレビっ子だったらしく、昔のテレビ番組や芸能人に詳しい。水前寺清子が「チータ」と呼ばれる由縁を松本に教え、「お前は何でそんな事を知ってるんや…」と松本を驚かせた。

・モノマネで得意なもの萩本欽一で、『欽ちゃんの仮装大賞』では欽ちゃんのモノマネを披露し、欽ちゃんに叩かれた。

・自身が司会を務めるジャンクSPORTSを通じて数々のスポーツ選手との親交があるが、かつて「ガキの使いやあらへんで!!」のフリートークにおいて何度も「ブサイク」「妖怪タンコロリン」と発言した谷亮子(田村亮子)は一切の番組で共演した事がない。またアスリートたちが感動的な話をするとジョークとして、「ごめんなさい。この番組ではいい話をするとカットなんですよ」と必ず言う(実際カットされたことは少ない模様)。

・浜田個人としては「ADブギ」(TBS系)などのドラマにも出演し、俳優業もこなす。これについては島田紳助に「自分は相方のように笑いだけでやっていくつもりはないんです。」と語っていた事がある。また、俳優を本業としている人間に迷惑を掛けてはいけないと、NGは非常に少ないらしい。だが、脚本を勝手に関西弁に変えてしまうなど、アドリブも多く、共演者は笑いをこらえるのに必死だったとか。「パパとなっちゃん」で共演した田村正和は、浜田の演技は面白いと絶賛していたらしい。

・ダウンタウンとしては後輩であるナインティナインとの絡みは皆無に等しく、不仲説が囁かれているが、どちらも冠番組を抱えるギャラ単価の高いタレントであり、同じ番組で共演するメリットが事務所的・業界的にも無いというだけのことであろうと思われる。浜田個人は「めちゃ²イケてるッ!」の「やべっち寿司」のコーナーに何度か飛び入りで出演したことがある。「フジTV警察24時」のコーナーにも出演し、「ヤクザっぽい」という理由で勝手に容疑者扱いを受け逮捕(容疑は暴対法違反)された際には、岡村にタバコを投げつけるなどやりたい放題だった(勿論ネタ)。これまで共演が少なかったのは、初めてのからみ(1994年の正月番組)で岡村をシバキまくり、ナイナイにトラウマを与えた事や、松本が自身の著書「松本」で「ナイナイはダウンタウンのチンカス」などとナイナイを酷評したことなどが要因とも言われている。浜田が岡村をシバいたのは「靴下飛ばしゲーム」で力みすぎて中途半端な結果を出した岡村に対する救済処置だったのだが、いかんせん加減が出来ない浜田に岡村は本気でビビってしまったようだ。一方松本はというと、後に「あれ(チンカス発言)はゴーストライターが書いた」とネタにするなど、彼ら以外の後輩への扱いと別段態度を変えているわけではない。2003年にナイナイがラジオ内で語った、数年ぶりにスタジオでダウンタウンに会ったときのエピソードによると、松本は挨拶に「うぃーっす」と普通に返し、浜田は「今日は何?」と聞いてくれたものの、岡村は極度のビビリのために「何もないです!」とうそをついてしまったそうである。他に質問してもビビッてまともに答えられない岡村に、浜田は「俺、普通に聞いてるだけやん」と突っ込んでいたとのこと。このときのナイナイのトークは、ダウンタウンを嫌がっているというよりも、2人揃ったダウンタウンに会ったのが久々で感動したという内容であった。

・恋愛に関する話題が苦手である節がある。過去に恋愛関係の番組をほとんどやっておらず、自身の番組でも恋愛のトークはあまり参加しない傾向が強い。「ダウンタウンDX」でも、杉本彩や梨花などの過激な恋愛論にさすがの浜田もツッコミが冴えず、ただ笑って聞いているだけしかなかった。金子賢にも「浜田さんは人の話を引き出すのは上手いけど肝心の自分の話はちっともしない」と突っ込まれたことがあるように、自ら本心を語る場面も極めて少ない。

・1995年よりH Jungle with tで音楽活動を行ったり、その翌年にはドラマ「竜馬におまかせ!」の役作りの為に長髪にしたりするなど、次第にその容姿にも注目が集まるようになり、30代でありながらラフな格好をすることからファッションリーダーとしてファッション誌でも取り上げられるようになった。浜田のファッションを真似る人達は「ハマダー」と呼ばれていた(当時、アムラーやシノラーなど、ファッションリーダーを真似る一般人はその手本となる人物をもじった愛称が付けられていた。相方の松本も対抗し、ネクタイの先をズボンに入れる格好を「ヒトシー」と呼んでいたが、全く定着しなかった)。

・芸人よりもタレント、俳優、スポーツ選手といった、別の業種に浜田を慕っている人物が多い。俳優の内藤剛志や袴田吉彦は番組での共演から親交が深い(内藤に至っては年上にも関わらず弟子入りし、浜田を「師匠」と呼んでいる)。この2人とは番組企画でCDを発売している。俳優の細川茂樹、金子賢、加藤晴彦は「浜田ファミリー」と呼ばれており、自宅にもよく遊びに来る。遠藤久美子も「『人気者で行こう!』では非常に面倒を見てもらった」と読売テレビ番組「土曜ドカンッ!」で話している。

・毎年正月には家族でハワイ旅行に出かける。親交のある星野伸之夫妻、ハイヒール・モモコ夫妻、遠藤章造・千秋夫妻も同行している。

・ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!の罰ゲーム中に通行人のおばさんに「あんたウッチャンナンチャンの小さい方(内村光良)でしょ」と言われた。

・愛用携帯電話はP902i

・「運転免許の試験に3回落ちた」と松本がラジオで話していた。2001年、新宿区霞岳町国立競技場千駄ヶ谷門前の交差点で、赤信号で停止している車に愛車のベンツで玉突き衝突する事故を起こし書類送検される。長者番付の常連であったが、新車を買った事がないらしい(W140ベンツも中古車)。

・動物嫌いで有名だったが(若手時代、吉本所属のマジシャン、マジック中島・ひろみと楽屋が一緒だった際、マジックに使う鳩の鳴き声にキレ、マジックに使う短剣で籠をガンガン叩いたという)、近年犬を飼い始め、溺愛している。その事実を知った松本はショックを受けていた。


【性格】
・相方の松本曰く、浜田は努力家だという。現在の縦横無尽なツッコミも努力の賜物である。

・短気であり、非常識なファンには激昂することが多くある(ファンに激怒したエピソードの数々をテレビ番組でネタにされる事もある)。グアム旅行に行った際にファンに無断撮影されたことに対して激怒し、喧嘩になりかけたところをたまたま同じ飛行機にのっていた田代まさしに「怒っちゃだめだよ」と止められたこともある。

・息子と2人でTSUTAYAでゲームソフトを買いに行った時に、息子がどれを買うか迷っていたため「なにしとんじゃワリャ! はよ決めんか!」と怒鳴っていたと、リンカーン内の企画「芸人大走査線」で、キャイーンの天野がどっきりの際、内山信二が証言していた。

・そのくせ意外にもなかなかのビビリ(小心者)。松本が内緒でウンコをしている浜田のトイレのドアを思い切り蹴ったら、中から「ええ〜…?」というか細い声が出たという。

・松本曰く、あがり症であるという。1989年4月にダウンタウンが「笑っていいとも!」にレギュラーとして初登場した際、浜田は生放送中にも関わらず緊張のあまり「オエッ!」えずいてしまい、「まだちょっと緊張感あるのかな、一義!」とタモリを本名で呼んで笑いを取りつつ誤魔化していた。また、1995年の紅白歌合戦に出た時は目が泳ぐほどあがっていた。2006年のトリノオリンピックではメインキャスター(フジテレビ)に選ばれたが、多くの記者が集まったその記者会見における表情等でも浜田のナーバスな表情が確認できる。ちなみに、傍目にはわからないが、浜田が大舞台であがっている時はツッコミが異常に痛いらしい。

・思った事は包み隠さず口に出すタイプで、ある番組で素人の女性がVTRに映った時、「うわ!ブサイクやな!コイツ」と叫び、松本に制止された。また、深夜の時間帯ではあるが、森三中に対して明らかなセクシャルハラスメント行為をしたことがある。「ダウンタウンDX」でも、有名人の昔の写真を見て、「うわぁ!パンチ効いとるなあ!」などとよく言い、松本にツッコまれている。ゲストに対し「死ねばいいのに」などの強烈な言葉を発することもよくある。勿論これらは全てジョークの範疇に含まれるが、大御所俳優などにもこのようなストレートな発言をぶつけて笑いを取る才能は、松本や島田紳助などから「自分にはない」として高く評価されている。

・非常に攻撃的で破天荒であり、「芸能界一の超ドS男」の名をほしいままにするように、TVではふてぶてしい態度を見せるが、実際の彼は気配り上手であり、聞き上手で礼儀正しく、後輩への面倒見も非常によい。また、コンビ単位でも個人単位でも司会をする機会が増えており、初対面のゲストでも自然と親しい者同士のような雰囲気でトークを進めたりする技術力は彼独特のもの。こうした人柄や芸風から、「島田紳助の後継者」という呼び声もある。

・子煩悩で教育熱心としても有名。「浜田刑務所」と呼ばれるほど躾に厳しいが、世田谷界隈で、よく家族連れで遊んでいるのが目撃されている。休日には子供にせがまれるでもなく、自ら率先して遊びに連れて行っているようである。また、子供との会話は関西弁が移らないように基本的に標準語で喋っている。その反面、大のアダルトビデオ好きで、自室でヌキ所を編集するのが趣味らしく、妻の小川菜摘も黙認している。

・テレビ番組で妻ととある岬(錠前に二人の名前を書き柵につける場所がある)に行った際、錠前に自分の名前と妻の本名を書き、一緒に来ていたハイヒール・モモコ一家らに(妻の名前を芸名ではなく本名で書いた事を)「自分本気やー!」とからかわれた。ちなみに、Wコウジなど浜田と親しい後輩達は後日その事を知り、その惚気っぷりに「こんなん俺らの知ってる兄さんやない!」と嘆いたという。

・一度AV女優との浮気が発覚した事があるが基本的に愛妻家で、「リンカーン」では電話で楽しそうに話す様子が放送された。その光景を見た芸人達から「絶対愛人かと思った」と言われてしまう。 

・中学校時代には石野真子をおかずにしていたと本人が番組で発言。

・尊敬する人物は田中角栄。

・映画「仁義なき戦い」の大ファンであり、またヤクザを特集した雑誌なども好んで読んでおり、ガキ使のトークでは「芸能人はいつ狙われるか分からないから銃の所持を認めてほしい」と発言したこともある。こうしたことに加え「楽屋では拳銃の手入れをしている」と松本がネタにしたり、本人も「若い衆」「側近」といった極道用語を普段から使っていることなども、前述の「ヤクザっぽい」キャラクターが浸透した一因であると見られる。ヤクザ映画の主演を務めた事もあり、また「ダウンタウンDX」の第一回でヤクザ映画のパロディーを菅原文太・山城新伍、川谷拓三と行った時は、三人から「素晴らしい演技だった」と大絶賛された。


【略歴】
■芸人になる前
大阪市でペンキ屋(大阪万博にて太陽の塔のペンキ塗りをしたペンキ屋)に勤めていた父・憲五郎、母・信子の間に生まれ、小学5年に父が独立、尼崎市でペンキ屋を開く。父とヒロミの父とは、鹿児島時代の同級生(2人とも就職の為に出身地の鹿児島を離れた)である。妹は通称カーコ(本名不詳)。浜田は両親が留守の間、妹に「マー坊ライス」を作ってあげたり面倒をよく見たらしいが、濡れタオルでしばいたり、髪の毛をつかんで引きずり回したりと手荒く扱ったりもしたらしい。親友でもある松本人志や高須光聖曰く、実家はひどく貧乏だったらしく、よほど親しい友達でないと家に上げてもらえなかったという。住んでいたアパートはかなり老朽化しており、浜田が幼少時、浜田の家の上の階の床が抜け、上に住んでいた韓国人のおばちゃんが浜田を抱いていた母親の肩をかすめて落ちてきたことがある。しかし、本人は貧乏であったことは認めるが、生まれたときから貧乏ではなかった、という主張をよくする。本人いわく、「大阪万博までは羽振りが良かった。それからや、ヤクザの取立てが家に来るようになったんは。」と語る。父親は知り合いの借金の連帯保証を背負わされてヤクザに拉致監禁されたことがある。

高校は三重県にある全寮制の日生学園第二高等学校(入学は日生学園第一高等学校。2年次に移動)を卒業。在学時はあまりに厳しい環境のため何度も寮を脱走したとか(本人談)。浜田が一年生の頃、学校の便器を素手で掃除するというしきたりがあったほどである(『徹子の部屋』に出演したときに述べていた)。脱走した際、お金がなく困っていたため松本に電話し助けてもらったらしい。同校の後輩として今田耕司がいる(今田は同校中退)。

高校卒業後の目標は特になかった為、父親の提案で競艇選手の試験を受けたが落ちている。

■吉本入り
1982年、小学校から中学校時代の同級生である松本人志を誘って吉本興業入り。同社の若手タレント養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」第1期生となる。当初は「松本・浜田」というコンビ名であったが、その後改名により「ひとしまさし」「てるお・はるお」「ライト兄弟」を経て、現在のコンビ名「ダウンタウン」になった。松本人志が松竹芸能に入りたかったらしいが猛反対した。

デビュー当時はそのふてぶてしい態度から先輩達から忌み嫌われる存在であったものの、「4時ですよーだ」(毎日放送)で関西地区での人気を不動のものにする。程なくして上京、「夢で逢えたら」(フジテレビ)などで人気を博し、全国区タレントとして広く名を知られるようになる。1990年前後にはウッチャンナンチャン・とんねるず・B21スペシャルらと共に「お笑い第三世代」として一大ブームを巻き起こした(とんねるずは第三世代にくくられないが)。

東京進出直後、「スーパークイズスペシャル」に出演。「目立たなければいけない」と、全く親交が無く「近くにいた」加山雄三に「おい雄三、コラァ」と喧嘩を売ったことが東京のテレビ関係者にウケた。もちろん加山が芸能界のドンであることは承知の上での行動だったろうが、番組終了後には平謝りだったという。また同じ関西出身で司会を担当していた逸見政孝とのやりとりも見ものであり、逸見の「お前らしっかりせえや!」「何でお前らおんねん!」との言葉に対し「いつみ〜!」「いつみのオッサンだけは! あのガキは!」「逸見、後で裏来い」といった暴言をよく吐いていた。しかし楽屋では非常に仲が良く、逸見が逝去した際は「逸見さんはダウンタウンが売れるきっかけを与えてくれた人です。本当に感謝しています」と涙ながらに話していた。


【芸風】
突っ込みのパターンは頭をはたく、デコピン、ゲンコツ、回し蹴り、かかと落とし、頭突き、ビンタ、ほっぺに噛み付き、鼻に指を突っ込む、前肩と後頭部を同時に叩く(松本曰くとても痛いらしい)など、様々なバリエーションに富み、突っ込む相手もどんな大物であろうが手段を選ばない。火のついたタバコを投げつける事もあり、素人の女の子に突っ込んで泣かした事もある。特に初期の頃は、相手を分析して突っ込まなかったので、もともと気を使う性格の浜田は、番組内もしくは番組終了後に謝る事が多かった。ただし、明らかに調子に乗っている素人や芸能人には何のフォローもしていない。

「ごっつ〜」「ガキの使い〜」内でのドッキリ企画では迫真の怒りの演技を見せる。ドッキリの為の演技とはいえ、浜田のとてつもない怒りぶりを見てYOUや篠原涼子やココリコ田中直樹らがこのドッキリに引っかかり泣いてしまったことがある。 逆に、浜田自身は「ごっつええ感じ」の「野生の王国」というコントで「ほんこんだと思ってしばいていた着ぐるみの中の人物が、実は坂本龍一だった」というドッキリを仕掛けられたことがあり、坂本だと分かった時にはただただ平謝りだった。 また同じく「ごっつ〜」内の企画で、高校時代に最も恐れていた恩師が「オウ!浜田!」と突然登場した事もあり、本気でビビる姿を見せた事もある。

一時期はハリセンが定番のアイテムであった。今では素人だろうが芸能人だろうが浜田に突っ込まれることがありがたいことになってきているが、これはHEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPでまだ売れる前だったシャ乱Qのつんくにどついたところ、その後売れっ子になったことをつんくが提唱したからである。俗に言う「浜田にどつかれるとミュージシャンは売れるジンクス」である。しかし、加賀まりこや泉ピン子など毒舌を得意とする大御所クラスの女性芸能人の前では、さすがの浜田もツッコミが弱くなってしまうことが多い。もちろん、頭をはたくなどのツッコミは絶対にせず、笑いながら言葉でツッコミを入れるのが精一杯である。また、言葉ではトークの当事者にツッコミながら傍らにいる松本の頭を叩く事もある。しかし「ガキの使い」の企画では加賀にゴミ袋を被せるなど(ある意味)体を張って笑いを取りに行くこともある。

大阪時代から東京に進出した後の1992年頃までは、松本・ゲスト・観客に対してキレキャラで接し、どつくことを基本にしていた。しかし、一般に受け入れられるようになり始めた1993年頃から、意識的によく笑うことを新しい芸風にした。この転換は大成功で、その後のダウンタウンのイメージアップに貢献した。

ツッコミのスタイルとしては、中田ボタンをはじめとする多くの先輩芸人から影響を受けている。一般的にツッコミというポジションは「努力と技術がものをいう」と言われており、浜田もかつてコンビを組んだ当初は突っ込みの概念を掴みあぐね、中田ボタンを参考にしたという(三世代漫才トークより)。 また、後輩のナインティナインらが出演しているフジテレビ系の「めちゃ×2イケてるッ!」では「やべっち寿司」のコーナーにちょくちょくひやかしに訪れるため、「ヤクザ」とテロップが表示される。

たまに、後輩の千原兄弟と共演するときは千原靖史(せいじ)のことをわざと「やすし」と呼ぶ。当然、千原靖史は「せいじや!!」とツッコむ。


【スポーツ】
・スポーツ好きで、2005年6月25日に代々木のバレーの試合を生観戦した。そして試合前にコメントしたが早くも「凄いすね!この雰囲気」と絶叫。同年12月25日にはフィギュアの試合も観戦。その華麗な美の競演に言葉を失った。

・ゴルフ好きとしても有名で、過去にゴルフビデオを何本もリリースしたり、ゴルフウエアブランドを立ち上げたりしている。だが、腕前はいまいち。全英オープンゴルフの特別番組では司会も務めたが、青木功に高飛車な態度で応じたことから強烈な嫌味を言われた。

・2000年4月の第1回の放送より、ジャンクSPORTSのメイン司会に起用され、更に2006年2月に開催されるトリノオリンピックではフジテレビ系列の五輪メーンキャスターに抜擢された。金メダルが荒川静香選手の一個のみという戦果に終わった大会だったが、「浜田さんが一番"金"を稼いだ」と松本にからかわれた。

・阪神の本拠地・甲子園球場がある西宮市の隣の尼崎市という出身にもかかわらず、大の巨人ファンであったが、2007年4月30日のヤクルト対巨人戦での副音声では「今年から東京ヤクルトスワローズファンになりました。」と言っていた。

・スポーツ新聞はスポーツ報知を愛読している。

(出典:Wikipedia)

松本 人志

松本 人志(まつもと ひとし、男性、1963年9月8日 - )は、日本のお笑い芸人、映画監督。

通称は「松ちゃん」。兵庫県尼崎市出身。血液型B型。左利き。逆子だった。現在、独身であり未婚。身長172.8cm。

お笑いコンビ・ダウンタウンのボケ担当。相方は「浜ちゃん」こと浜田雅功で、1982年にコンビ結成。吉本興業(東京本社)所属で、吉本総合芸能学院(NSC)の第1期生。


【概要】
1990年代以降のお笑い界で絶大な人気を得ているお笑い芸人。そのためミュージシャンや俳優、作家などにも多くのファンを持つ。

「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」でのフリートークにおける即興的な笑いのスタイルに特徴を持つ。

また、コントでの役になりきる自らのスタイルを「憑依芸人」と名づけている。

「寒い(サブい)」「ブルーになる」「逆ギレ」「へこむ」等の新語の創作者としても知られる。また、性癖に限らず人をSとMに分ける考え方を広めた。松本自身は芸能界を代表するドMである。

自身のレギュラー番組や舞台などには出演者としてだけでなく、制作にも積極的に関わる。

漫才師として、自身、または浜田が裏番組に出ない限り、連年、M-1グランプリ決勝の審査員を務める。


【略歴】
・1982年に兵庫県立尼崎工業高等学校を卒業後、中学時代からの友人であった浜田雅功と共に吉本総合芸能学院(NSC)に入学(同校の1期生)。入学当初から浜田とコンビを結成。

・ダウンタウンとして様々なテレビ番組にレギュラー出演。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ系列)「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ系列)等では出演のほか番組の企画・構成も担当した。

・1994年から1995年にかけて、松本が週刊朝日に連載していたエッセイを単行本化した「遺書」「松本」がベストセラーになる(「遺書」は250万部、「松本」は200万部)。また、1994年度の高額納税者番付でタレント部門の1位になる。

・1990年代後半より、「一人ごっつ」シリーズ(フジテレビ系)、入場料1万円のコントライブ「寸止め海峡(仮)」、料金後払い制ライブ「松風'95」、コントビデオ「松本人志VISUALBUM」など、個人での活動も行うようになる。

・1997年10月、「ダウンタウンのごっつええ感じ」スペシャルが、松本への事前連絡無しにプロ野球の優勝決定試合に差し替えられたこと等を理由に、同番組の打ち切りを決定する。(本人はそれ以外の理由があったと話している。)その後のフジテレビとの関係が心配されたが、この打ち切りは日曜20時枠とコント番組に対しての撤退に限定したもので、その他のレギュラーの降板は無かった。

・1998年、「ガキの使い」内のトークコーナーにおいて「髪を坊主にしたい」と発言し、その後に実際に坊主にし、現在に至る。又、雑誌「コマネチ」で因縁深いビートたけしとの初対談が掲載された。

・1999年、松本に密着したドキュメンタリー番組『松本人志の本当』(NHKBS)放送。

・2000年、自身の原案で『伝説の教師』(日本テレビ系、SMAPの中居正広と共演)に主演。

・2000年、尊敬する島田紳助とのトーク番組『松本紳助』放送開始。

・2001年、構成作家の高須光聖とラジオ番組「放送室」(TOKYO FM)を開始。

・2001年10月12日、復活スペシャルとして「ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル」が放送される。視聴率は9.0%。期待していたものより高くなかったのと、フジテレビの編成や制作のまずさを指摘、「本当に面白い事はテレビではもう出来ない」と発言。そしてダウンタウンとしてはテレビ向けコントを制作しないことを宣言する。

・2006年、第2日本テレビの中でVODにて新作コント「Zassa(ザッサー)」を配信。

・2006年、レンタルビデオ店のアダルトコーナーにいる姿の写真を雑誌FLASHに無断で掲載され、その写真が防犯カメラの記録ビデオから転載したものであったため発行元の光文社らを訴え、勝訴した。これにより、「防犯カメラのビデオ映像からの写真転用は訴えられるほどの悪事である」という主張が認められた。

・2007年、本人が企画、脚本、監督、出演の四役を務めた映画「大日本人」を発表。日本での公開に先立ってカンヌ国際映画祭の「監督週間」に招待されたが、新人監督賞にあたるカメラ・ドールの受賞には至らなかった。6月1日放送の「さんまのまんま」で明石家さんまと10年ぶりに共演を果たした。その他「笑っていいとも」等にも出演しているが、宣伝を名目に色んな番組に出て見たかったとの事。


【人物】
・少年時代に漫画「天才バカボン」(赤塚不二夫作)等に影響を受け、漫画家を目指すが、赤塚不二夫著の漫画家教本に「漫画家は算数(九九)が出来なければならない」と書いてあり、九九が苦手だったことから漫画家への道を断念したと語っている。

・父親の仕事の関係上、様々な公演チケットがよく手に入る環境にあり、吉本新喜劇などの舞台をよく観に行っていた。テレビのバラエティ番組も好きで、ザ・ドリフターズなどの番組もよく観ていたほか、笑福亭仁鶴らの落語も好んで聴いていた。また小学校時代、友人と漫才コンビを組んで実際に人前で演じるなどしていた。

・裕福な家庭ではなかったため、限られたものを使って自分で遊びを発明するなど創意工夫の中で発想力や想像力が鍛えられたと語っている。

・特技は自動車の運転。趣味はビリヤード、ゲーム。

・フィンセント・ファン・ゴッホ、アンネ・フランク、黒田官兵衛を好み、NHK BSの番組『松本人志の本当』でアムステルダムにあるゴッホ美術館とアンネの隠れ家を訪れている。

・5人家族の末っ子。家族構成は父、母、兄、姉。家族の話を番組ですることが多く、番組に出演させることもある。

・実兄はヒューマックスの取締役であり、2007年に歌手デビューをした松本隆博。

・影響された芸人と公言しているのは藤山寛美、島田紳助、志村けん等。

・アダルトビデオ、風俗好きを公言している。

・AV女優・松本コンチータの名付け親である。

・毛じらみをうつされた経験があり、一時期自身の番組などで何度もネタにしており、「毛じらみ」が代名詞になったほど。

・プロ野球をはじめ、スポーツ嫌いで有名だが、友人に辰吉丈一郎がいるように、ボクシングなど、一部格闘技は好む。ボクシングには自身も挑戦したことがあり、その習得する様子を番組にしたこともある。

・番組ではスーツを着用することが多く、ネクタイの先をズボンに入れている。

・ヘビースモーカーだったが、2003年から禁煙をしている。

・ザ・クロマニヨンズ(元THE HIGH-LOWS・THE BLUE HEARTS)の甲本ヒロトと親交があり、番組での共演や、ハイロウズのアルバムジャケットのデザインや、CM出演などをしている。

(出典:Wikipedia)

ダウンタウン

ダウンタウン(DOWNTOWN)は、吉本興業所属のお笑いコンビ。

【メンバー】
■松本 人志 (まつもと ひとし)
・兵庫県尼崎市潮江出身
・1963年9月8日生まれ
・血液型B型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 兵庫県立尼崎工業高等学校卒業
・主にボケ担当。独特の間合いと個性の強いキャラクターで浜田曰く「松本がダウンタウン。おれはダウンタウンを紹介しているだけ」とのこと。3人兄弟の末っ子(二男)。愛称は「松ちゃん(まっちゃん)」・「まっつん」(学生時代の友人らが使い、浜田も昔はそう呼んでいた)。出演のみならず自らの番組の企画・構成も行い、ソロとしても「人志松本のすべらない話」「働くおっさん劇場」などのテレビ番組の出演や、短編「頭頭」、DVDオリジナルコント短編集「VISUALBUM」などを制作し、2007年には初の映画監督作品『大日本人』を発表するなど、クリエイターとしての多彩な活躍を見せる。結婚歴なしの独身。

■浜田 雅功(はまだ まさとし、本名:M田雅功)
・大阪市浪速区生まれ
・兵庫県尼崎市育ち
・1963年5月11日生まれ
・血液型A型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 日生学園第二高等学校卒業
・主にツッコミ担当。愛称は「浜ちゃん」・「ハマタ」・「はまちょん」「M君」(浜ちゃん以外は学生時代の友人らが使う)。妻は元オナッターズでタレントの小川菜摘。際だってメリハリのある突っ込みが松本のボケと好対照を成し、ダウンタウンの魅力の重要な要素となっている。ソロとしては、テレビドラマの出演や、バラエティ番組「ジャンクSPORTS」、「浜ちゃんと!」など、司会業を中心に活躍している。

【概要】
個性が強いコンビの為、熱心なファンを多く獲得している。松本のシュールなネタと独特の間合いは、「ダウンタウン登場以降、漫才のスタイルがダウンタウンのコピーになってしまった」といわれるほど、以後のお笑い芸人(特に師匠を持たない新世代の芸人層)に大きな影響を与えた。上岡龍太郎をして「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは二人とも客よりも高い位置で話をやってる。これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と言わしめている。

また彼らは自己の世界観を共有するスタッフと番組制作を行うことが多く、ブレーン的位置にいる高須光聖や、ミュージシャンとしても活動する倉本美津留らの放送作家陣は、彼らの成功に無くてはならない存在であった。番組に出る際は大抵浜田はカジュアルな服装で、松本はスーツ姿で臨む。

二人とも干支がウサギ年で、ウサギ年の人に出会うとしばしば手をウサギの手のようにして少し前に出て「我らウサギ団!ピョン!」というネタを行う。

【出会い〜結成まで】
松本が通っていた小学校に浜田が転校して来たのが最初の出会い。互いに第一印象は良いものではなかったが、中学2年のときに放送部で一緒になり友情を深める。当時はお互いに“ツレ”と呼ぶ“相方”がいて、思い思いに同級生間で漫才を披露したりで過ごす。別々の高校に進学の為に交流は一時期疎遠となったが、一度浜田が高校の寮を脱走し、わずかなお金で松本に電話をかけ2〜3日かくまってもらうがすぐに高校教師につかまってしまう。高校卒業後、競艇選手の試験に落ちた浜田が、中学卒業当時に冗談混じりに「漫才組まへんか」と言った言葉を、当時既に印刷工の就職が決まっていた松本に改めて諭し説得(松紳より)。これに松本が応じる。当初松本は藤山寛美の印象と自由にやれる環境を指向し松竹芸能を希望するが、浜田の猛反対に遭う。結果、吉本総合芸能学院(NSC)に一期生として入学。師匠を持たないいわゆる「ノーブランド世代」のはしりでもある。同期にはトミーズ、ハイヒール、内場勝則、浜根隆、前田政二などがいる。「松本・浜田」「まさし・ひとし」「てるお・はるお」「ライト兄弟」とコンビ名は変わりつづけたが、1983年に喫茶店で開いた雑誌に記載された「ダウンタウン」と言う文字から(さんまのまんま)決め、ようやく定着する。「ライト兄弟」の名は飛行機好きの横山やすしから「飛行機をバカにしとんのか」と否定された。

【結成直後】
「2人が向かい合うように立って声を張らずに喋る」という彼ら独自の一見ダラダラした漫才スタイルを取っていたのは、当時の吉本でも大木こだま・ひびき辺りしかいなかった。彼らはまず漫才を本格的にスタートさせるに当たり、以前より最も好きな紳助・竜介の漫才テープを繰り返し聴いていた。その後自分たちの個性に合ったスタイルとテンポに換骨奪胎する形で移行していった。

紳助自身は新世代漫才のあるべく姿を「間を減らしたテンポの早い16ビートの漫才」と見ており、それゆえダウンタウンの登場当初は、その遅いテンポの漫才を「面白いが、果たしてこれが商品として成功するのだろうか?」と疑問を持って見ていた。しかし太平サブロー・シローと紳助・竜介、ダウンタウンとの10日間に渡る花月共演の際、ダウンタウンの漫才の高度さを紳助曰く「ピカソの域に達している」と大きな衝撃を受け、自己の限界を感じてその足で吉本本社へと出向き、漫才を引退する旨を伝えたことは有名である(以上ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から)

紳助は記者会見でダウンタウンの名前を挙げたが、新聞では「紳竜解散! サブローシローらには勝てない」と書かれ、当時まだ無名だったダウンタウンはあえなく報道からカットされてしまった。しかしこの一件から、まだ他の誰もそれほど取り上げる存在ではなかった当時のダウンタウンを的確にその将来性を見抜いて見せた紳助に尊敬の念を抱くこととなり、ダウンタウンとのつきあいはここから特別なものとなった。

【vs横山やすしにみるダウンタウンの漫才への姿勢】
ライト兄弟時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)にて、家庭内暴力を奨励するネタをやり、司会の横山やすしが「八尾のチンピラが立ち話しでもしとんのか!」と一喝した事実がある。この一件について松本は、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それの何が悪い」と、また「テンポ・間合いばかりを重視してしまうと面白いものが生まれなくなってしまう」とやすしの漫才への姿勢を著書において批判した。ちなみにダウンタウンとして漫才活動は、ビデオ「ダウンタウンの流」を最後に封印している。

【漫才師】
以前松本は「漫才師」という古めかしい肩書きを嫌い、「スーパーギャグメッセンジャー」などと自称していたこともある。その後は「お笑い芸人」「コメディアン」とする事が多い。

現在の松本は「もう漫才をやらないんですか? と聞かれることが多いけど、やるとかやらない以前に僕には漫才師の血が流れてる」と「漫才師」という職業への愛情を語り、一方浜田は自身をタレントやお笑い芸人とは言わずに「漫才師」と称している。(「欽ちゃんの仮装大賞」に出演時の松本の肩書きは、「松本人志(27) 2名 大阪府 漫才師」であった。)

【ダウンタウンのスタイルを育んだもの】
余り語られることがないが、松本の著書に記述されている通り、松本が尊敬する喜劇人として挙げる松竹芸能の故藤山寛美の影響が伺える。相手をいらつかせる独特のテンポと間は確かに松本の原点であるとも見える。松本は手放しで藤山寛美を称え、現在でも時折藤山の映像を見直すと言う(著作より)一方1980年代の雑誌「宝島」のインタビューでは自分のお笑いの背景を語っており、その一つにラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下RGS)を挙げている。ダウンタウンは後に、東京進出前にRGSと共演も果たしている。

RGSが演じる、不条理で無意味性を押し出したシュールな世界は所謂「明確なオチのない笑い」であり、微妙で奇妙な空気でエンドになる事が多い。舞台を主な活躍の場としていた彼らは、一切媚びがなく観客を突き放すようなスタイルは東京においてすら一部のお笑いマニア層の話題に上る程度の存在であり、ビートたけしからとんねるずへ繋がる「表舞台」でのバラエティ番組黄金期にあっては、最後まで主流になる事はなかった。

どちらかと言えば関西のお笑いとは対極にあったRGSに松本が傾倒していた点は興味深い。同誌でも「大阪はお笑いの中心地のように言われているが、逆に言えばお笑いには保守的で、新しい物を受け容れず、オチが明確で無ければ絶対認めない風潮がある。早く東京でやりたかった」と語っており、自己の目指すスタイルがRGSに見られた不条理・シュールな世界であることを述べている。

このRGS的なシュールさと藤山寛美のリズムを持った松本に、中田カウス・ボタンの中田ボタンの出演に通いづめることでツッコミに磨きを掛けた「努力の人」(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)浜田が出会うことで、ダウンタウンの全く独自のスタイルが完成された。浜田の存在は、ダウンタウンの漫才を一見関西スタイルの典型的なお笑いとして受け容れやすくし、また松本の凶暴でシュールな笑い感覚も「オトン・オカン」と言った尼崎発のベタベタな庶民感覚でコーティングすることによって、多くの観衆に受け入れられるものとなった。

1980年代の初期ダウンタウンは松本はまだヒキキャラで、現在の様にキレるスタイルは無く、浜田もまたバラエティでも荒く雑な突っ込みや悪態が多く、失敗を重ね、番組中に謝罪を求められる事もあった。しかし松本は元々のセンスに加えて努力を惜しまない。世間が「ダウンタウンは浜田の突っ込みが凄いのだ」と言われると敢えて浜田抜きの番組と舞台やVTR作品に臨み(寸止め海峡やVISUALBUMなど)「松本は若手を使わないと面白くない」と言われると「一人ごっつ」や「松風」等で答えを出してみせる。一方浜田は舞台の客が若年層が多いことを当初気にして、客が笑っていても自分で納得できない舞台があるとカウス・ボタンのボタンの突っ込みを客席の端から凝視し学んだ事もあった。番組でも失敗した状況に似た場面が再度訪れると確実に修正をした形跡を見る事もある。

つまり「才能のある人物が努力を惜しまないコンビ」がダウンタウンのもう一つの姿である。

ちなみに、漫才をカジュアルな格好で演じるスタイルはダウンタウンが始めたように言われているが、中田カウス・ボタンが関西では最初である。

ダウンタウンの漫才そのものが、いわばチェンジアップである松本のボケを基盤としており、間をずらすことでリアリティを意図的に作り出すスタイルであった事を考えると、それがそのままガキの使いで即興的に行われるフリートークに移行していったことは、ごく自然の成り行きであると言える(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)。

また、芸人でありながらタレントの要素が求められた場合、その部分の大半を浜田が請け負う。 松本はゲストを呼ぶ司会業の時に、まず浜田がズケズケつっ込んでいくのを見定めてから「この人(ゲスト)はここまではイケるんや」と、松本自身がボケの目安にしており、その観点における力量は浜田に信頼を寄せているという(「松紳」2004年6月9日放映より)。 元来、見知らぬ人と接することが苦手である松本にタレント的な役割を与えてしまうと、本業のお笑いへの良からぬ影響が懸念される。しかし、それを浜田が一手に担うことで、松本本来のお笑いの才能が発揮できる環境を整える。これにより、単なるタレント業だけない本格的お笑いコンビ、ダウンタウンが成立している。

【吉本内での東京進出における勢力争い】
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い〜の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。


吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。


第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。


マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。

【エンターテイメント】
松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。

浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。


【戦友・ウッチャンナンチャン】
同世代の吉本芸人(ハイヒール、トミーズ、ジミー大西など)以外の芸人との絡みがほとんどないダウンタウンだが、東京進出後のダウンタウンが出演する最初の代表番組となった『夢で逢えたら』で共演したウッチャンナンチャンとは仲が良い。90年代前期まではダウンタウンとウッチャンナンチャンが一緒に仕事をすることもしばしばであった。また互いの番組に出演するということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号などで一緒になるときは楽屋が一緒だったとのことである。

芸歴ではウッチャンナンチャンがダウンタウンより3年後輩で、年齢もダウンタウンの方が1歳上であるにも関わらず、『浜ちゃん』、『松っちゃん』と呼ばれていて、浜田・松本の二人もウンナンの二人を呼び捨てにせず、「ウッチャン」「ナンチャン」と呼んでいる。その為か、ウンナン一派の出川哲朗(出川は学年こそ同じだが、後輩であるため、『松本さん』、『浜田さん』と呼ぶことが多い)や勝俣州和との仕事も多く、最近では『リンカーン』でさまぁ〜ずとも共演している(『笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ'06』で松本は三村とコントも行った)。逆にダウンタウン一派のココリコや山崎邦正なども『ウンナンの気分は上々。』に出演したりしていた。

近年では殆ど共演が見られない両組だが、2003年に開催された第3回M1グランプリでは松本と南原がお笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、めったに見られないツーショットとして、当時からのファンを喜ばせた。2006年度第6回M1グランプリ決勝戦でも、南原清隆と隣の席で審査員を務め、貴重な2ショットを見せた。また、ミュージシャンとして、内村はポケットビスケッツやNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!』に度々出演し、共演を果たしている。またプライベートでは、南原の子供が生まれた際や内村の結婚に際し、祝福のメールを送ったとされる。一方で2対2の共演は1998年放送の『いろもん』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に9年近くない。

ちなみに松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのは嫌」と評している。また、自身の著書で「ウンナンがおれへんかったら、ダウンタウンは(売れるのが)もう少し時間がかかったんちゃうかなあって思いますよ。」と語っている。


【コンビ愛】
浜田・松本の2人はプライベートではあまり親密ではないが、不仲というわけではない。HEY!HEY!HEY!番組中にも語っているが、そもそも漫才コンビは彼らに限らず仕事で毎日のように会うために、プライベートでわざわざ会う必要が殆どないだけである。松本は「浜田の家には結婚してから行ったことがない」(著書より)「浜田の息子は赤ん坊の頃に見たぐらいで、それからは会ってない」(「ガキの使い」内での発言)と語り、その逆も同じと思われる。またコンビの不仲説は人気漫才コンビにおいて良くある噂である。

ちなみにお互いの携帯番号すら知らないらしい。2人が携帯電話で話したのは、『ごっつええ感じ』で浜田が怒り狂ってロッカーを蹴り右足を剥離骨折したさい、スタッフから番号を聞き出した松本が浜田に電話した、そのただ一度きりである。松本の「わざわざ電話すんのとか恥ずかしいわ」 発言から、家族と改めて電話をするのが恥ずかしいのと同じような感覚であると思われる。

二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々と喋り続けてしまうらしい。それを日本テレビの特番が逆手に取り、楽屋にダウンタウンが二人きりになってしまうというシチュエーションが用意されたこともある。

その一方で抱き合ったり、キスしたり、キャッチボールをしたり、笑顔で2ショット写真を撮るシーンが一年に数回放映される(テレビカメラの前、しかも共演者に要望されての行動であるが)。特筆すべきはその時の二人には躊躇や照れがほとんど感じられない点で、特別な絆を感じられずにはいられないほどである。そのアツアツぶりは時として観客から赤面の悲鳴が上がるほどである。

松本は「覚えたくはなかったが、浜田の誕生日だけは覚えてしまった」と言い、一方の浜田も「松本と別れることがあったら俺はお笑いはしない。最高の笑いを見続けて来たから、他の笑いなんてできない」という発言もしている。二人がお互いのことを尊敬しあっているのは事実であろう。

最近では、昔ほど気軽に付き合えなくなった互いの関係を少し寂しく思っていることが、『ガキの使い』等のトークで垣間見えることがある。かつて二人のグアム旅行の日程がかぶってしまったことがあるが、その期間中ずっと松本は意図的に浜田との遭遇を避けていた。それを聞いた浜田が「なんで話しかけてくれへんねんな」と聞くと松本は「なんかそれは照れくさいじゃないですか」と答えていた。

また、たまに浜田が風邪をひくと松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来れなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった。(ウンナン・南原やココリコ・田中の証言より)

松本は独身であり、女性関係の話題には事欠かないが、スキャンダルになる事を松本本人以上に浜田が気にかけている節があり、松本がネタとして自身の女性関係の話題を出すと、「今そんな事話さなくていいやろ」と、本気でフォロー、あるいは窘める事がある。逆に、松本は浜田が自分の女性関係などの話を「お前は独身やからええやん」とズケズケとネタにすることについて、「俺がすんのはええけどお前から振るなよ」という不満を若干持っている模様。


【「笑い」に対する姿勢】
彼らを評価する際に、「体を張る」という点が上がることが多い。芸人として芸能界入りした者も、売れるようになると司会業等をそつなくこなし、やがて「芸人」というよりは「タレント」と呼ぶべき存在になることが極めて多い(松本が「心の師匠」と仰ぐ島田紳助などが好例である)。ダウンタウンの二人も売れるようになった90年代には後輩芸人を高い位置からえげつないほどいじることが多く、PTAなどから批判の対象にされる事が多かった。しかし2000年頃を前後していじられ役になる事が若手芸人以上に多くなり、自身の番組において、着ぐるみを被る、鼻フック、生卵を額で割る、熱湯をかけられる、バリカンで髪を剃られる、真冬に半裸で海水浴、そして『ガキの使い』において周知の、尻叩き等の過酷な罰ゲーム等を自身にも課したりなど、吉本興業を代表する日本のエンターテインメント界の大御所でありながら、まるで若手芸人のように体を張って笑いを作る姿勢は大いに評価されるところであろう。松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。


【略歴】
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。(普通にちゃん付けで呼びづらい雰囲気だったという)

小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)、「見た途端に気を失った。目を覚ましたら浜田が近付いてきて、また気を失った」など。また「小学校5年生にして彼女がいたというなんというハレンチな男であろうか」(『遺書』より)という報告もある。逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた(周りの人曰く、「校内で一番面白かった」)。浜田も当時からコンビを組んでいた。中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。

浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので尼崎のニチイの階段で頭を抱え悩む浜田に、松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。

卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。この頃の事は、松本自身も「地獄」と語るほど精神的に叩きのめされた時期であるという。1人暮らしする金もなく、実家から電車で劇場に通う(しかも支給された電車賃はなぜか源泉が引かれていた)生活は、父親からくどくどと嫌味を言われ、母親からは同期のトミーズやハイヒールと比較されるなどのたまらない状況だった。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。『4時ですよーだ』の平日の午後4時の帯や、NHK大河ドラマの裏である日曜8時の『ごっつええ感じ』などバラエティー不毛の時間帯の歴史を塗り替えてきたことが、そのままダウンタウン成功の歴史と符合している。

『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて吉本を代表するタレントとなり、現在に至る。

(出典:Wikipedia)

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。