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小島よしお

小島よしお(こじま - 、本名:小島義雄、1980年11月16日 - )は、沖縄県出身のお笑い芸人。サンミュージック企画所属。千葉市立稲毛高等学校、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。


【プロフィール】
身長178cm、血液型O型。星座はさそり座。左利き。元WAGEのメンバーで、WAGE時代に事務所の先輩後輩の間柄であったことから ポルノグラフィティと仲が良く、新藤晴一の野球チーム・桜丘クロゴスに所属。晴一によると、HEY!HEY!HEY!のゆかりゲストとして出て欲しかったが、小島の知名度が低かったため断念。


【芸風】
筋肉質な「ブーメランパンツ」姿で、体験談などを話すも途中で失敗(言葉を間違えたり先にオチを言ってしまったり)に気付き「下手こいたー!」と落ち込んで、床にひざまづき頭を垂れた後、BGMが流れると尻から立ち上がり、軽快なリズムに合わせてネタを始める。尺が短い場合はBGMを流しながら登場する事もある。

BGMは、Woodyの「hype 'o' tek」、TWIN PITCHの「GHETTO BLASTER」を使用している。

ネタは、失敗談のあと「○○○、だけども だっけぇど、×××、でもそんなの関係ねぇ!、そんなの関係ねぇ!」と拳を振りながら力説する。「だけども だっけぇど」は言わない場合もある。その後「はい(セイ(say))!オッパッピー」と叫んで白目をむきながら左腕と右脚を斜めに伸ばして“イ”に似たポーズを取り、「チントンシャンテントン チントンシャンテントン」と唱えながら軽妙な踊りを見せる。『でも「そんなの関係ねぇ!」×3→「はい!オッパッピー」→「チントンシャンテントン」×2』が基本の流れとなる。

たまに「おー(O)!(おー!)ぴー(P)!(ぴー!)えー(A)!ぴー(P)!あい(I)! オッパッピー」と盛り上がろうとする。尺が長い時、お客の対面で行う事がある。「おー」「ぴー」はお客との交互、「えーぴーあい、オッパッピー」は一緒に言う。 あいうえお作文を行い、小島の「こ」こんなに大勢の前で、小島の「じ」人生懸けて、小島の「ま」まさかの人任せと言う。よしおの「よ」よせばいいのに、よしおの「し」しらけた空気を、よしおの「お」オッパッピーとも言う。

必ずといっていいほどネタの途中でグダグダになる。

初期の頃は「はい!オッパッピー」ではなく、「○○○オッパッピー」と言っていた。現在も締めで「暗転下さいオッパッピー」等を用いる事がある。司会者に「オッパッピーってなんですか?」と質問されると「なぜ知らないの?」という顔をして「オーシャン・パシフィック・ピース(太平洋に平和を)」の略だと応える所までがネタ。ただし、正式な太平洋の英単語のスペルは(The)Pacific ocean(パシフイック オーシャン)である。ちなみに、Ocean pacific peace(オーシャン パシフィック ピース)を直訳すると大洋平和平和となり、ゴロとしてはおかしい。これは、もともとのオッパピーは、卑猥な言葉だったらしいが、他の芸人にダメ出しを受けて「オーシャンパシフィックピース(Ocean Pacific Peace)」に変更したためだといわれている。 かつては怖い話などをしながら、体中にオイルを塗りたくり肉体をアピールするネタを披露していたが、上記のネタでブレイクした。

最近では「そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!はい!オッパッピー!」がTOKYO FMのラジオ番組SCHOOL OF LOCK!のメインパーソナリティの1人であるやましげ校長(山崎樹範)が番組中にこのネタを使用し始め、同番組内で大ブームとなっている。


【エピソード】
■本名の小島義雄名義で出演していたこともあった。あだ名は「よしピー」。

■はいているブーメランパンツは3種類あり、初期の海パンがゆるくなった為現在の緑色の海パンになったと発言。なお3代目の海パンはGyaOの超サンミュージックで視聴者プレゼントされた。
本人のネタに祖父はブラジル人と登場するが、本当は日本人だと自身で暴露する。

■2007年3月4日に茨城県・取手市民会館において行われたライブで、桜塚やっくんに気に入られ、その日のブログで紹介されている。

■2007年5月の第5回お笑いホープ大賞決勝進出。審査員特別賞を受賞。

■2007年5月25日放送の日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』に出演し、多くの人に知られるきっかけとなった。

■2007年5月27日放送のABCテレビ系『笑いの金メダル』で新郎役・上田晋也の友人という設定で出演も初めに「はじめまして」といってしまう天然でもある。その回で仲人役・西川きよしに「短期間かもしれないけど、これは流行るかも」と言われ、同じく仲人役・北斗晶からは「あんなバカ見たことない」と言われた。結果、その回にネタ出しで出演した芸人の中からMVPに選ばれた。

■『笑いの金メダル』でネタをやる時は必ず「地球温暖化…」と言いかけたところで幕が閉まっていた。

■2007年6月14日放送の日本テレビ『ラジかるッ』に出演し、早稲田大学時代、番組MCの宮崎宣子アナと同じオールラウンドサークル所属だったと発言。

■2007年6月14日放送のTBSラジオ『カンニング竹山の生はダメラジオ』にゲストで出演し、元高校球児だったと発言。小学校から高校まで野球をやっていたという。そして、「自分は野球選手になるか芸人になるか悩んでいた」と発言。ドラフト会議で自分の名前がいつ呼ばれるかを待っていた(もちろん実際に指名される事は無かった)。

■2007年6月21日放送のTOKYO FM『Wonderful World』に出演時間よりも早く登場し、ゲストとして来ていたビリー・ブランクスの前で持ちネタを披露。ビリーに「オッパッピー」と言わせることに成功。

■2007年7月6日放送の日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』に出演し、滝沢沙織と知り合いである事を明かした。

■2007年7月22日に行われたTAICHI MASTERの結婚式、披露宴、ライブに、DJ TATSUTA、MCU、CMJK、LITTLE、宇多丸、wyolica、ハナレグミらと共に出席し、芸を披露した。

■2007年7月31日放送の爆笑レッドカーペットで、YouTube週間再生ランキングが世界5位になったことがあるということが明かされた。

■2007年8月8日放送のTBS『明石家さんちゃんねる』で、本人曰く、「そんなの関係ねぇ!」のネタは学生時代DJであった先輩が、いきなりマイクをフッてきたが、面白い事を言えなかった。そんなときに「そんなの関係ねぇ!」という言葉が降ってきたらしい。

■音楽戦士 MUSIC FIGHTERの明るいニュースでポルノグラフィティの新藤晴一と同じ野球チームのチームメイトであり後輩だという事を明かした。

■2007年8月16日放送のGyaOの超サンミュージックで持ち込み企画を行っていたが、小島の「キンタマ」連呼に腹をたてたスタッフが注意を行う。この後、小島とスタッフの口論が始まり、放送事故(風のコント?)のような状況になる。結局、番組の最後で例の音楽が流れだし、ネタが始まる。番組最後の告知中に「これはフィクションでした」と説明が入り番組は終了する。

■2007年8月18日放送の日本テレビ系列24時間テレビ 「愛は地球を救う」の1コーナー(熱湯コマーシャル)に登場した際、アドリブで浴槽内にて持ちネタである「そんなの関係ねぇ!」「オッパッピー」を披露した。小島が浴槽内で平然とネタを続けた事で、実際には熱湯ではない事が露呈してしまうというハプニングが生じた(昨年も小阪由佳が熱がるリアクションを取らなかった為、熱湯ではない事を露呈されている)。若槻千夏のブログによれば、その後、楽屋でカンニング竹山から「関係ある時もあるんだよ」というアドバイスをもらったようである。また放送内で「熱いという前提が壊れちゃったよ」とあえて火に油を注ぐようなことを言って笑い飛ばしていた爆笑問題の太田光は後に「竹山とかがさんざん冷やかしたら本気で落ち込んじゃって」と茶化した上で「最高だった。腹抱えて笑った」「あれをきっかけに大ブレイクするぜ、多分」と絶賛している(『爆笑問題カーボーイ』8.22放送)。この事件を放送事故と見做す者もいるようだが、若槻や太田は笑い話として扱っていた、その後2007年8月27日放送の笑っていいとも!で小島はダチョウ倶楽部と再共演を果たし「こう見えても僕、熱さに強いんです!でもそんなの関係ねぇ!」と自身のギャグを交えてこの日の事を堂々とネタにしていた、その際肥後克広から「関係あるだろ!」とツッコミを受けている。

■2007年8月28日 TOMORROW(J-WAVE)にて例の事件(24時間テレビにて)について話しを振られた。どうやらあの後は頭が真っ白になったらしく、唯一覚えているのはたむらけんじの獅子舞で隠させてもらったこととカンニング竹山に言われた言葉ぐらいらしい。ちなみに、多少引きずっているらしい。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000029-rbb-ent

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小木博明(おぎやはぎ)

小木 博明(おぎ ひろあき(本名の読み方は「こぎ」)、男性、1971年8月16日 - )は、お笑い芸人でおぎやはぎのボケ担当。相方は矢作兼。


【経歴】
■東京都立北野高等学校卒

■1995年コンビ「おぎやはぎ」を結成。

■2006年10月10日に元歌手の森山奈歩と結婚・入籍。森山良子は義母、森山直太朗は義弟になる。


【人物】
■1995年コンビ結成。変わった芸風で、コンビ両方が眼鏡をかけている。苗字の発音は「おぎ」で通しているが、本来は「おぎ」ではなく「こぎ」である(子供時代、父親がコギという発音だと小汚いからオギに改めようと提案したことによる)。

■コント(ライブやリチャードホールなど)でホモキャラを演じることが多かったが、実際は女遊びが激しい。

■過去に大手CDショップに就職した際は、面接で「クラシックが大好きです」とハッタリをきかせて見事就職した。(実際にはクラシックはほとんど聞かないらしい)

■事務所内では相方以外にアンジャッシュの児嶋一哉と仲がいいらしいが、渡部建やアンタッチャブルの柴田英嗣など人力舎の芸人には楽屋でふざけたりするいたずら好きが多い為、特に何もしてこない児嶋を下に見ていることもあるらしい。

■最近はいろんな種類の眼鏡をかけている。

■加藤浩次に嫌われている。(第一印象が悪かったらしい)

■同期に北陽がいる。

■趣味はゴルフ。ベストスコアは87。

■特技はフォークボールと言い張り、今までも何回かテレビで披露したことがある。サッカーも上手い。

■リンカーンのロケで眼鏡が壊れたので昔の眼鏡などを色々かけている。

■ボードゲームスコットランドヤードを「ボードゲームの王様」として愛してやまない。(さんまのまんまより)

■「小木じらし」「小木45度」「一人おぎっち」など、数多くの得意技があることを番組内で告白している。

■バナナマンと出演している「epoch TV square vol.1(第4話)」や、バナナマン・ラーメンズと出演している「ライヴ!君の席」でバク転を披露している。本人曰く「“何か”をいきなり挑戦しても、一度も失敗したことがない」

■爆笑問題の検索ちゃんではあまりにも珍解答ばかり出す為、井上聡、庄司智春とともに「バカ3人組」と呼ばれている。矢作が「小木が答え出した後に俺に説明を求めるのはやめてくれ。」と言ったほど。

■2006年10月10日、歌手森山良子の長女で元ミュージシャンの奈歩と結婚したことを報告。(10月13日のTBSラジオJUNK「おぎやはぎのメガネびいき」にて。)

■最初に知り合ったのは吉本興業とのジョイントライブで、まちゃまちゃから紹介されたことからである。

■お付き合いから結婚まで6年かかっての入籍となった。

■「さんまのまんま」で以前恋人がパグ似だと発言していたが、それは奥さんのことであることも暴露。

■小木は新居が見つかるまで森山家に「居候」(いわゆる「マスオさん」)している。

■小木の部屋は森山直太朗が以前に使用していたものであり、CS放送が見放題だという。(そのため新居にはCSアンテナが設置できることが条件らしい。)

■その森山家での居候のため、森山家に婿入りしたと何人かに勘違いされた。

■2007年3月9日にFRIDAYに宝月ひかるとの密会している所を撮られる。以前から宝月ひかるとはアンジャッシュ児嶋の紹介で仲が良かったもので何も無かったと弁明した。これについて森山家の皆からブーイングを買い、森山良子からは「脇が甘い」、森山直太朗からは「ダサい」と言われた。

■実家は歯科の開業医で芸能人の常連も多いという。

■「リンカーン」のドッキリ企画ではトイレに置き忘れられていた(設定の)100万円入り封筒を見事ネコババした。その後楽屋にいる相方のところに持っていって「どうしようか」と尋ね矢作が「山分けしよう」という会話もしていた(冗談であるが)。その後置き忘れた設定の人が封筒を探しに楽屋へ入り無事阻止した。

(出典:Wikipedia)

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おぎやはぎ

おぎやはぎは、小木博明と矢作兼によるお笑いコンビ。プロダクション人力舎所属。1995年にコンビ結成。干支は、両方とも、いのしし。


【メンバー】
■小木博明(おぎ ひろあき、本名:こぎ ひろあき(字は同じで読み方が違う)1971年8月16日 -)

血液型B型。東京都板橋区ときわ台出身。ボケを担当。東京都立北野高等学校卒業。2006年10月10日渋谷区役所で森山良子の娘、森山奈歩と6年の交際を経て入籍。

■矢作兼(やはぎ けん、本名:松嶋 兼(まつしま けん)(母親が再婚したため名字が松嶋に)、1971年9月11日 -)

血液型A型。東京都豊島区池袋出身。ツッコミを担当、ネタ作りも行う。東京都立北野高等学校卒業。


【来歴】
■1995年 結成

■2001年 M-1グランプリ2001出場 決勝10位
(第1回のこの大会で大滑りしたことが有名。一時期ネタにしていた)

■2002年 M-1グランプリ2002出場 決勝4位


【芸風】
■2人とも視力が実際に低く、眼鏡を着用する眼鏡コンビ。当時のメガネブームの火付け役の1組。まったりとしたスローテンポと独特の言い回しのツッコミ(激しいツッコミはほぼ無い為、ツッコミというよりも「宥め」「許容と説得」と取ることもできる)で展開される漫才が特徴。

■つかみには必ず
小木「小木です」
矢作「矢作です」
小木・矢作「おぎやはぎです」
あるいは「おぎやはぎですけど何か?」、「おぎやはぎですけど何か質問でも?(もしくは「問題でも?」)」
と言い、漫才に入る。

■「何か」の部分はたまに変わることがある。例えば、「怪我をしないように頑張ります」や、お正月だと「あけましておめでとうございます」など。

■「何か問題でも?」は、長いためかTVでは「何か?」でネタに入るようになったという。

■この地味な芸風がウけ99年頃からアンダーグラウンド的な人気を博していたが、04年の後半辺りから番組出演数が異常に増え現在ではドランクドラゴン、アンジャッシュなどと共に人力舎の看板芸人であるといえる。


【エピソード】
■矢作の姉は靴と服のデザイナー。

■小木の家は歯医者。

■小木が入籍の際、婚姻届の証人の欄に矢作とまちゃまちゃ(小木に森山奈歩を紹介した)がサインした。

■小木が結婚したことを森山良子の歌にちなんで「ざわわした」と言われることがある。

■2人の出会いは高校だった。2人とも東京都立北野高等学校卒業。中学から電車が一緒でお互いに気になる存在だったそう。

■小木が高校一年から一年間付き合っていた子と、矢作は高三から七年間付き合ったといった「気持ちの悪い」エピソードが多々ある。

■矢作は高校生の頃お洒落でモテていた。

■小木は高校生の頃サッカーが上手くて、実業団のチームから声がかかるほどだった。

■23歳までお互いサラリーマンをしていた。

■異常なほどのコンビ愛も特徴とされてきたが、「ロンドンハーツ」の検証で、カメラの回っていない場面ではその異常なほどのコンビ愛は見られず、ネタであることが判明。(後に実はカメラが回っていたことを知らせると、必死に弁明していた)とはいえ、プライベートの旅行で別々にハワイに行ったのにも関わらず、滞在4日中2日一緒に遊ぶ等のエピソードからすると、仲の良いコンビである。また、小木の眼鏡を買いに矢作も一緒に買い物に行ったこともある。

■元々コントをやっていたが、漫才のみが対象の「M-1グランプリ」に出場するために漫才を覚えたという。第1回大会にて見事関東組で唯一決勝に進出したが、勝負どころでネタが大滑りし、全10組中ダントツで最下位と言う悲惨な結果となった。中でも大阪の一般審査員からは100点満点中、9点であった(この一般審査がなければ9位であり、最下位はチュートリアルとなっていた)。だがこの第1回大会に関しては、所謂、関東芸人に不利な状況であり、不平等だと酷評する見方がある為、おぎやはぎがこの様な結果だった事で以降ルールが変った。2002年の「M-1グランプリ」決勝では第4位と健闘し、立川談志に「リーガル千太・万吉を彷彿とさせる」と絶賛された。今では2001年のM-1で最下位だった事をネタにしている。

■共演者から、「第1回M-1で良い成績取ったんじゃなかった?」と言われて矢作が「あ〜、ビリです。」と答え、その後に「でも大阪じゃ良い点数取ったんじゃなかった?」と言われ、「大阪100票中9票ですよ。」と返すのが一般的。その後に「俺らのおかげでルールが変わった。」と付く事もある。

■矢作はまだ芸人になる前「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ)の企画「幸せの黄色いハンカチ」で彼女とよりを戻したいという内容で出演していた事がある。結果よりを戻したが、その後しばらくして別れた。

■二人とも過去の経歴に謎が多く、その大部分はTVではいえないブラックな内容らしい。

■矢作は元極楽とんぼの加藤浩次と非常に仲がよい。矢作がお笑いをやろうかと考えている時に地元の先輩が働いていたBARで加藤が働いていた。それからそのBARに通うようになり親しくなったようである。加藤曰く、名前で呼んでくる芸能人は矢作と中山の秀ちゃん(中山秀征)だけとのこと。矢作は浩次君と呼んでいる。

■デビュー後も加藤浩次からは様々なアドバイスを得ている。たとえば、二人そろって眼鏡をかけるようになったのは、加藤の助言によるもの。

■バナナマンと仲が良く、epoch TV square(BS日テレ)で共演したり、合同ライブを行った事もある。

■森山直太朗とも互いが有名でない時代からの旧知の仲であり、小木にとっては義弟にも当たる。

■鶴の間で矢作が出演した際笑福亭鶴瓶に絶賛される。(俺若手の中でおぎやはぎが一番好き)また、矢作は笑福亭鶴瓶のハワイの別荘を貸してもらったりする関係。

■サッカーゲームのウイニングイレブンが好きで、加藤軍団VSロンブー淳軍団で対決したりもしていた。

■さんまのSUPERからくりTVに出演することが夢だったらしく、プロレスラーの中西学が相談者の悩みを解決する「熱いプロレスラー中西学のお悩み相談バーベキュー相談亭」のコーナーに出演を果たしたが、おぎやはぎの冷たいツッコミからか人気は下がっているようだ。だが明石家さんまは絶賛している。

■犬が大好きな小木は優しい言葉に弱い(矢作曰く「言葉をかけるのもかけられるのも好き」)。「クイズプレゼンバラエティー Qさま!!」(テレビ朝日)内の企画「10m高飛び込み」では、飛ぶのを1時間以上ためらった小木に対し、先に飛び込んだ矢作が「おいでおいでおいでおいで」と優しく声をかけると、そこから30秒ほどで飛び込んだ。

■現在はそれぞれ日本メガネ党の党首・幹事長として、メガネの素晴らしさを世にひろめる運動をすすめている。

■小木は森山良子のことを「ママ」と呼んでいる。

■小木は、テレビ朝日系ロンドンハーツにて、『結婚とかはまだ言わないで下さい。いろんな番組の都合上。』という森山直太朗に宛てたメールを暴露された。この事に関して「上目線だな〜」と突っ込まれ、小木は「もう義理の弟ですから」と切り返した。

■約30年ぶりに、行方不明だった矢作の父親の行方がわかった。父親は猿回しの芸人さんをしていた。

■矢作は歯並びの悪さをかなり気にしており、差し歯にしようかと本気で考えているが、一部のファンの反対もあり悩んでいる。

■二人とも東武東上線沿線出身で、「うたばん」に出演すると同じく東武東上線沿線出身の石橋貴明と「東上線組」としてゲストや中居正広をそっちのけで盛り上がることが多い。

■矢作はさまぁ〜ずの熱狂的なファンだが、本人達にはその事実を未だに伝えていないらしい。


【結成秘話】
■矢作が地元の先輩に「お笑いをやりたい」というような話をしていると、その先輩が勤務しているBARで加藤浩次が働いているという話になり、その店に通うようになる。加藤とそこで親しくなり、矢作は芸人になることを決意する。

■サラリーマン時代、上海勤務だった矢作はホームシックになり小木に助けを求めると、小木は数日後上海まで様子を見にきた。矢作は色々なことを小木に話し、そのとき初めて小木に「芸人になりたい」と話したという。その数日後、矢作は有休を使って小木と共に日本に帰国した。

■帰国後、矢作は上海に帰りたくないので有休を全部使って小木と遊んだ。小木はハワイでの広告代理店がバブル崩壊のあおりを受けて潰れ、新しくディズニーランドのマネージメント職についたばかりだった。当時就職したばかりで忙しかったようだが、矢作がディズニーランドに来てはミッキーに「小木どこ?」等と尋ねるので仕方なく小木も矢作の有休の間、仕事半分で矢作とゴルフやドライブに行ったりしていた。(ライブ情報)

■矢作は有休もほぼ使い切り上海に戻ることになったが、未婚で仕事ができる矢作は会社にとって、どうしても抜けて欲しく無い人物だった模様で、会社に戻ると上海から簡単に帰れないようにするために、「上海支部長」の席が用意されていた。だが、悩んだ矢作は「もう上海には帰りたくない」と上司に告げた。しかし、「日本に君の席は無い」という返事があり、矢作は会社を辞めることにした。会社を辞めて芸人になると矢作は小木に話したが、矢作「コンビ組むんだったら小木がいいけど、小木はどうなの?」小木「今、どうって言われてもね」と、コンビ結成の誘いはやんわりと受け流された。

■数日後、遂に矢作は辞表を提出し、「芸人になります。ワガママばっかですいません」と挨拶した。実際は芸人になるというのは口実でしかなく、その後は白紙状態であった。すると小木からゴルフの誘いがあり、二人で会う事になった。矢作が会社を辞めたということを言おうとすると、小木「俺、会社辞めてきた。明日から毎日ゴルフできるよ」矢作「一緒にお笑いしない?」小木「暇だし、なんにもすることないし、いいよ」そして、おぎやはぎは誕生した。小木は矢作のために会社を辞めたと思われる。

(出典:Wikipedia)

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関根 勤

関根 勤(せきね つとむ、1953年8月21日 - )は、東京都港区生まれのタレント、コメディアン、俳優。浅井企画所属。娘はタレントの関根麻里。旧芸名はラビット関根。通称:「ラビット」、「ラビ」、「ラビー」、「カンコンキン」、ルー大柴からは「トム」、麻里からは「おっちゃん」とも呼ばれている。また、事務所の後輩で長年の親友である小堺一機とのコンビはコサキンとして知られている。 身長168.5cm(笑っていいともでの本人発言)。


【経歴】
東京都内に4人兄弟の末っ子(兄2人に姉1人)として生まれる。なお、関根が生まれた1953年8月21日(歌手・タレントの円広志と同じ日)は、東京で最高気温38.4℃を記録し、1994年8月3日に39.1℃を記録するまで、東京では観測史上1位の最高気温であった。父は東京消防庁勤務の消防士で、謹厳実直な家庭であったと関根自身が回想している。東京都立八潮高等学校を卒業。薬師丸ひろ子は高校の後輩に当たる。

年寄りっ子の末っ子(本人談)という事で奔放(わがまま)な幼少期を育ち、我を通す為にはかなりわめき散らす子供だったようで父にはよく「勤、怒鳴るなよ」とたしなめられていたと言う。
1974年、日本大学法学部管理行政学科在学中にTBSテレビ「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場で初代チャンピオンとなる。その時の審査員の一人にいた現所属事務所・浅井企画の浅井社長に見出され、芸能界デビューすることになる。

関根の回想によれば、放送後に浅井社長と川岸副社長に呼び止められ近くの喫茶店に行った所、川岸の「体は丈夫〜?」の第一声に始まり「ウチの事務所でお笑いをやらない?」とオファーを受けた。関根自身はプロの芸人になる事は考えていなかったので回答を渋っていたところ、突如それまで沈黙していた浅井社長が「君なら出来る!君なら出来るよ!ウチはコント55号を育てたんだから。明日の朝10時に事務所に来なさい!」と関根に言うと、直ぐさま帰ってしまった。
あっけにとられたものの翌日、関根は場所を間違いながらも事務所に到着。そこには浅井社長が契約書を持って待ち構えていた。交渉といっても「はい!これ契約書、よく読んで!ウチは怪しいモノじゃないから読み終わったらサインして!」とまくしたてる社長に圧倒された関根はただサインをしただけだったそうであるが、こうして浅井企画所属のタレントとして芸能界に本格的デビューする事となった。
この際、桂三枝が、1975年の干支であるうさぎ年にちなみラビット関根の芸名を命名(年が明けるごとに干支にちなんだ芸名に変え続ける案もあったらしい。これは「一回り(12年)しても売れなかったら諦めなさい」という意味もあったようだ。)した。当初は地道な活動からスタートすることになるが、次第にジャイアント馬場や千葉真一のものまねで注目され、『徹子の部屋』の前身番組である『13時ショー』にレギュラー出演し、「徹子の部屋」開始当初に設けられていたクイズコーナー(タイトルはフラッシュクイズ)の司会を務めていたこともある。後に、人気公開番組『カックラキン大放送』(日本テレビ系)のレギュラーとなり「カマキリ拳法」「田村正和拳法」などのネタで脚光を浴び人気が上昇、ドラマ数本にも出演。

事務所の後輩で、親友でもある小堺一機と組んだコサキン(当初は「コサラビ」)のコンビで、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』に「クロコとグレコ」役でレギュラー出演。この時、事務所の先輩である萩本欽一の指示で、芸名を本名と同じ関根勤に改める(注)。この番組をきっかけに全国区的な人気を獲得した。

現在では、テレビのみならず、米国映画『悪魔の毒々モンスター東京へ行く』 (1989) を含む映画にも多く出演。1985年には小堺主演の舞台『小堺クンのおすましでSHOW』に出演を開始し、1989年には自らを座長とした舞台『カンコンキンシアター』をスタートさせた(カンコンキンは、関根勤を音読みしたもの。また、同年を最後に『おすまし−』は降板)。以後、毎年夏に「裏関根」全開の公演を行っている。

また、コサキンコンビでメインパーソナリティーを務めるTBSラジオの番組『コサキンDEワァオ!』は、1981年以来放送時間や番組タイトルを変えながら放送期間25年を超す長寿番組となっている。同番組からは小堺との共著を含む数十冊の著書が出版された。また、同番組での人気コーナー「似てねーものまね」で、現在の芸風の基盤である、ものまねの世界を作り上げる。

現在もバラエティ番組を中心に活動、ターゲットをごく一部に絞るような独特のコメントで人気を博している。タモリ・明石家さんま・ビートたけし・高田純次・島田紳助・所ジョージ・ダウンタウン・ウッチャンナンチャン・ナインティナイン・とんねるずなど共演者を選ばない名バイプレイヤーぶりには定評があり、彼らからの信頼も絶大。その出演番組は数多く週に何本ものレギュラー番組を抱える。その一方で、コメディアンとしての初心は忘れず、本業はものまねをメインにお笑い芸人として活躍。

(注)関根・小堺の二人は世間では萩本の「弟子」と言われることが多いが、正確に言うと弟子入りしたわけではない。


【芸風】
お笑い芸人としての関根は以下のような芸が特徴。

■ものまね
似ているもの、似ていないもの、更にはものまねなのかどうか理解不能な物(例えばペリー)まで多数のレパートリーを持っている。なお、長嶋茂雄のものまねは彼が日本で初めて行なった。ちなみにものまねをする際は最初に名前を口走ることが多く、「誰のものまねをしたか。」を当ててもらうのには不向きであるが、「ひでじ」を連呼する大滝秀治のものまねのように名前の正しい読みが浸透したという例もある。また彼のものまねは真似される当人達からも比較的受けが良く、長嶋や大滝、千葉真一やジャイアント馬場などからは公認されるなどしている。

彼の不文律として「亡くなった人をネタにしない」と言うものがある。実際にジャイアント馬場が亡くなった時、「馬場さんのものまねは封印する」と宣言。実際にそれ以降、ジャイアント馬場のものまねは公式にはラジオで1度披露しただけである(ただし、馬場とのエピソードを披露する時は、例外的に一言二言程度まねをすることがある)。ラジオ番組においても、故人を元にしたネタは採用されない。この辺りに関根の実直な性格がうかがえる。

■「クドい」笑い
テレビ番組ではせいぜいクイズ番組などで時々ナンセンスな回答を披露するくらいであるが、ラジオや舞台ではシュールでナンセンスなコントを好んで演じる(なお小堺と組んでコントをする際は、ほとんど関根がボケを担当する)。カンコンキンシアターはある意味その極致で、彼はすぐ服を脱ぎ、また脚本でもシュール、マニアック、ホモネタ、エロチックネタも構わずに使用するなど、ばかばかしくてマニアックな「クドい」芸風を指向している。

これらは彼が大ファンであることを公言しているモンティ・パイソンのテリー・ジョーンズやマイケル・ペイリンが好んだ、ナンセンスなギャグの影響を強くうかがわせる。


【人物】
■芸能生活30年を超え、いわゆる一流芸能人であるが、一般常識と庶民感覚をしっかり備えているといわれる。自動車を買おうとディーラーに足を運んだ所、同じディーラーで扱う外車を薦められ、ローン回数から考えはじめて悩んでしまったなど、小市民ぶりはラジオでしばしば披露している。

■結婚20年を越えた今でも「女房に片思い」と言ってはばからない程の愛妻家であり(悦子夫人はかつてコサキンのラジオ本のタイトルになった事がある)、またコサキンの放送では娘とのエピソードが話題にあがらない週の方が少ない程娘思いの良き父親で(ラジオでは妻は冷たく、娘は自分に低い評価しかしてくれない、とぼやきまくっているが)、日本ファーザーズ・デイ委員会の「イエローリボン賞」(ベストファーザー賞)を受賞している。任天堂・ライオンのCMやトヨタカローラ店のキャンペーンなどでも、夫・父親役として起用されており、世間的にも「良いお父さん」というイメージを確立している。2007年には、関根出演の『お父さん』という癒し系DVDまで発売された。

■しかしテレビタレントとしては好感度の高い彼も、ラジオや舞台では「裏関根」と呼ばれる毒舌でマニアックな面も発揮している。テレビでは同じ業界の人間を悪く言う事はまず無い(例外もある。後述)が、ラジオや舞台ではバンバン言っている。特に芸能レポーターの前田忠明を目の敵にしており、小堺が苦笑いしながらなだめるほど。これを「コサキンリスナー」(=コサキンのラジオの聴取者)は先に挙げたイメージとのギャップをニヤニヤしながら楽しんでいる。近年ではラッパーに対する辛辣な発言が目立つ。常識人としての側面とあまりにも差があるためか、萩本欽一は1990年代になっても「関根はわからないな〜」と言っていた。

■娘の麻里もタレント志望で、2005年12月の『ライオンのごきげんよう』年末スペシャルでは小堺と関根親子で司会を務めたが、2006年6月に本格的に芸能界入りを果たした。所属は父親と同じく浅井企画。

■「ライル」という犬(ゴールデンレトリバー)を飼っており、ダウンタウンDXでは、「腐鮪鯖男(クサリマグロサバオ)」(元はラジオのリスナーの投稿ネタ)と呼んでいる。「ライル」という名前は、元の飼い主である浅井企画の後輩ずんの飯尾和樹の名字にちなんで付けられた(飯(ライス)尾(テイル)⇒ライステイルの略)ものである。

■なお、「ライル」はよく関根の寝技の練習相手にさせられており、実際にテレビ番組内で何度か関根に寝技をかけられ迷惑そうな顔をしている姿が放映されている。

■非常に笑い上手である。特に素人の何気ないことを「笑う」ことで、見る人に面白く思わせる一種の「技術」は天下一品である。『さんまのSUPERからくりTV』ではその才能が遺憾なく発揮されている。拍手や「ハウゥ!!」と外れた声を出したりと、変わった笑い方をする。

■大学時代に、『燃えよドラゴン』の洗礼を受けた(著書によれば「33回も見た」)ことがきっかけで格闘技マニアとなり、K-1やプロレス番組でもリングアナウンサーやゲスト解説者としても姿を見かける。しかし自身はかなりのなで肩でマッチョとはかけ離れた体格。(娘から「手足が細くて昆虫みたい」と言われた事もある。)そこで「オランダの小学生より弱そう」という自虐的なネタを放つことがある。なおもっとも得意なスポーツはゴルフ。シングルの腕前である。

■自身、芸能界で最も格闘技通であると公言し、誇りにしている。K-1やPRIDEが隆盛を誇る前は、パンクラスの熱心なファンだった(ただ一度行われた船木誠勝対鈴木みのる戦も観戦しており、試合評を雑誌に発表している)。現在も試合会場に足しげく通うほか、地上波、CSなどで月に70試合以上の格闘技の試合をテレビ観戦するそうである。また、PRIDE等で活躍する五味隆典のデビュー戦などを見に行った際には他に芸能人がいないことを確認し、自らが最も通であることを確信し嬉しかった、とテレビで語っている。

■若い頃から「女人鑑定家」やら「女人評論家」などと自称するほどのアイドルマニアの側面があり、ラジオではその手の女の子がゲスト出演してくれるたびに、小堺と共に浮かれてはリスナー達に翌週の餌食にされるのがお約束。また、以前はアダルトビデオにも詳しく、AV女優の秋元ともみや松本まりな、及川奈央がラジオ出演した事もあった(なお、及川はAV女優を引退してからの出演)。TVでは「ウラ関根TV」のコーナーでマニアぶりが発揮された。

■そのため下ネタが法度の欽ちゃんファミリー出身だが、彼だけは時折下ネタも話題に出来る存在である。彼の芸能生活20周年を記念して発売されたビデオ(後にDVD化)『カマキリ伝説』ではネタの一環として上半身裸の姿になったAV女優・安藤有里が出演している。

■とあるコサキンのイベントで、NITROの4人、木村郁美アナなどが握ったおにぎりを、それぞれ誰が握ったかを完璧に言い当てた事がある。しかも、その中に一人だけ引っかけで男性ゲストが握ったものを内緒で紛れ込ませていたのだがそれを「誰かを特定は出来ないが男性が握ったもの」と見破ってしまった。また、複数人女性がいる状況において目隠しをした状態で握手をして、その手が誰の手かを全て言い当てた事もある。こと女性の事柄に関しては感覚が凄まじく鋭敏になるようである。

■一方で男女間の恋愛に対してはかなりストイックな姿勢を見せ、ラジオでは「恋愛なんて幻想なんだよ!」と頻繁に発言している。ただし関根自身は夫人とは恋愛結婚である。

■小堺はかなりの映画マニアであるが、関根も映画マニアである。「関根勤のサブミッション映画館」「関根勤のフルコンタクト映画館」などの映画本を著している。

■小堺は服やDVDを衝動買いしてしまうが、関根はゴルフクラブやコートに目が無く、気に入るとすぐに買ってしまう。

■一人で新宿のゲームセンターに行くことがあるほどのゲーム好き。後輩の若手芸人の家で『みんなのGOLF4』を6時間もやっていたことがある。また、ゲームセンターでゲームに熱中していて、その最中に地震が起きた事に全く気がつかなかった事がある。またゲームとなるとムキになる性格で、普段は常識人で後輩に優しいのに、対戦中の後輩を突然怒鳴りつけてしまったり、ゲームの最中に一般人のおばさんに話しかけられサインを求められたのを「出来る訳無いでしょ!ゲームしてるんだから!」とこれまた怒鳴ってしまった事がある。

■酒は一滴も飲まず、タバコも吸わない。「オス」としての機能を生涯保ち続けるためだと自称している。なお酒を飲まないのは体質的に受け付けないからで、粕漬けを食べただけで靴のひもが結べないような状態になってしまったことがあるという。(この体質が娘にも受け継がれてしまい、麻里もアルコール類は一滴も飲めない)しかし若手芸人達やカンコンキン劇団員達との飲み会の席では、酒を飲んでいないにも関わらず誰よりもテンションが高いという。

■好きな食べ物はカレー(新宿中村屋のカレーがお気に入り)。嫌いな食べ物はキュウリと生のトマト。とんねるずのみなさんのおかげでしたの「食わず嫌い王決定戦」に出演した際は、缶詰入りのミカン、焼き鳥の「皮」も苦手であることを告白した。

■2006年のカンコンキンシアター公演千秋楽では、娘の関根麻里によってラストで同公演恒例となっているプライベート裁判にかけられ(座長の関根はいつもは裁判にかける側)、無理矢理プチトマトを食べさせられる。危うくその後のエンディングをものすごい低いテンションでやる羽目になる所であった。

■キュウリについてはどのような形で食卓に出されても残してしまう。サンドウィッチに挟まれている場合も同様。キュウリを残してしまうことに関して「(キュウリの)生産農家の方々に申し訳ない」と常々自戒しているというが、食べる気は毛頭ない。

■弱点は「カタカナ言葉」。きちんと発音する事が出来なかったり、言い間違いをしたりする。「バナナワニ園」を「ワナナバニ園」、「クレーム・ブリュレ」を「クレーム・ブリュルル・・(口ごもる)」、「インディペンデンス・デイ」に至っては「インデペンデペンデンデン・・・(最後まで発音できない)」。その事を娘の麻里にカンコンキンのお白州コーナーで突っ込まれていた。

■先輩に対する敬意は相当なもので、出演番組のゲストなどが揶揄するようなことがあると、穏やかながらも懸命にフォローする姿が多く見られる。カックラキン大放送出演時でも先輩を呼び捨てにしたアイドルを見て「○○はないだろ、○○さん、だろ」と言った姿が目撃されている。この上下関係観は学生時代の自動車部で培われたと、本人は語っている。

■その自動車部時代について、関根は部の通例として活動日誌の書き方が「させていただきました」と強制的に書かされるなどの封建的体質に嫌気がさしていたと回想している。またそれに対する嫌いな先輩の書き込みに対して「うるせぇ、ダル野郎」などと荒れた文面を残していた。その事が現在の後輩に対しての面倒見のよさに反動としてつながっているとも言える。

■2007年2月現在、笑っていいとも!男性レギュラーでは最年長レギュラーであり、1985年から出演中。

■前述の通りの愛妻家であるエピソードとして、ある時、タモリに左手の結婚指輪を見せ、「これ(指輪)は、何があっても家族を守る、と言う覚悟の印なんです」と語った事がある。但し、近年は夫人が愛犬の散歩の際に強い力でリードを引っ張られる事で指輪が曲がってしまい付けるのが苦痛な為に外している事が多く、「これだけ長い事一緒にいるのだから夫婦の愛情は本物だろう」と、関根本人も外すのをためらわなくなったという。


【逸話】
■長寿トーク番組「徹子の部屋」がスタートした1976年当時、ゲストとのトークだけで30分持たせられるか不安だったためか間に視聴者参加のバラエティコーナーを設けた。そこに司会として抜擢されたのがデビューして間もない関根だった。このコーナーの合間に関根はその日のゲストの黒柳とのやり取りを観察し、即興でゲストのモノマネをしてみせ、並みいる大物ゲスト達を感心させていた。31年後、娘麻里が「徹子の部屋」のゲストに登場した回では黒柳が大切に保管していたその当時の貴重なVTRを公開していたがそれを見た麻里は同じ年齢の頃の父親の姿を見て「気持ち悪いですね〜」と笑っていた。

■まだ萩本欽一に認められていなかった頃のこと。萩本の家へ行った際、萩本の息子とプロレスごっこをして遊ぶことになった。彼が手加減なしで攻撃してくるので非常に痛かったのだが、必死に耐えた(終わった後、やりすぎたということに気付いたのか彼は関根にサインを求めてきたりしたという)。それを見ていた萩本から「なかなかやるな」と言われ、認められるきっかけになったという。

■萩本は「ラビット」と言う名前を余り好んでいなかったため、関根は芸名を本名に変更することになったが、「ラビット関根」を桂三枝に付けてもらったとはその時は言えなかった。後にこれを告白したところ萩本は、「何でそれを言わなかったの〜。怒られちゃうじゃないの〜」と困惑したという。三枝には改名した詳細をずっと伝えていなかったが、2005年10月22日にTBSラジオ「コサキンDEワァオ!」に三枝がゲスト出演した際に告白した。

■かつて『奇跡体験!アンビリバボー』で、新人当時の小倉優子の態度に苦言を呈した事がある。なお、現在は和解し、笑っていいとも!の金曜レギュラーとして共演をしていた(現在、小倉は水曜日レギュラーになった後2007年3月に卒業)。

■スタジオでのトークの際、今の様なキャラクターではなかった小倉に「お父さんもイビキうるさい?」と何気なく質問したが、小倉は関根の質問を無視し、「それは置いといて」と連発して自分の事やその回のテーマとは関係の無い事を話していた。(当時、多忙となっていた山川恵里佳の代役として急遽抜擢された小倉は、スカウトされてからわずか数週間でのテレビ出演が決まったばかりであり、「何をするにも“いっぱいいっぱい”だった」と後日、述懐している)「人が聞いた事は、ちゃんと答えてよ〜」と関根は笑顔で対応していたが、所ジョージや清水圭は小倉に対し少し強い口調で注意をしていた。その回で関根は小倉とその後は口を聞いていない。後日、「笑っていいとも!増刊号」の放送終了後トークの中で、その時の出来事を話し、小倉の事を「礼儀がなってないから本当はアタマにきてたんですよ〜」と発言。

■その背景としては、厳しい芸の世界で長く生きてきた関根の哲学があると考えられる。関根は常に「自分は下積みがないままデビューしてしまったから苦労した」と語っている。盟友である小堺一機と初めて会った時も、「プロになりたいんです」と言う小堺に対し「下積みがないと大変だよ」とアドバイスしている。その事から、関根は後輩の小倉の不作法に関し厳しい目を向けたとも考えられる。

■その後、小倉は大学進学のため一時的に芸能活動を控えていたが、「こりん星」の姫と称する不思議少女系のキャラとして復帰し、大ブレイクした。

■なお、現在では関根は「あの時は虫の居所が悪かった」と反省している。基本的に「嫌いな人のモノマネはしない」という関根が小倉のモノマネをレパートリーに加えたことからも、関係修復はうかがえる。芸能界において自身が「特異なキャラ」を長年に渡り演じ、その意味や辛さを知っているからこそとも言える。ただし、関根は小倉に対し、「タレント」としての興味はあるが「女性」としての興味はない、と明言もしている。

■幽霊や超常現象などには非常に懐疑的。しかしレギュラーである『奇跡体験!アンビリバボー』はその番組スタンスが「検証」よりも「現象の紹介」に重点が置かれている。もちろん関根は番組出演者としてのリアクションをするが、ファンは「ホントは『そんなわけあるかよ』『うそくせ〜』と思ってるんだろうなぁ」という目で見ている。

■「さんまのまんま」に出演時、千葉真一のコスプレで登場、番組中ずっと千葉真一が来たという設定で番組終了までモノマネで通すという伝説を作った。その千葉は自分が出演していた時代劇『徳川無頼帳』で千葉がよく演じていた柳生十兵衛(この作品では西城秀樹が演じている)の偽者が登場する回に偽者役として関根を指名。関根は全編で「千葉の演じる柳生十兵衛のマネ」で演じた。

■「笑っていいとも!」には現在金曜日レギュラーで出演しているが、休暇時期恒例の「身内自慢コンテスト」の司会をする。(紹介者いじりも毎回の恒例)またエンディング前の「曜日対抗いいとも選手権」には出演者の中では一番やる気になっている。なお、かつては曜日レギュラーではなく、日曜日の「笑っていいとも!増刊号」の司会者を務めていた時期もある。

■芸人志向の強いウエンツ瑛士をライバル視し、寝言に出して悦子夫人に驚かれるほどである。逆に言えば、ベテランであるにも関わらずその地位に安住して気を抜を抜くようなことをしていない、関根の自身の芸に対する厳しさを示す逸話でもある。

■時々弟子志望の人が訪ねてくるが、「弟子になると芸ではなく弟子のプロになって終わってしまう」という理由で断り、所属の浅井企画が主催しているオーディションやセミナーへ行くことを勧めている。

■モンティ・パイソンのファンであることをことあるごとに言い続けていたことがきっかけで、テリー・ジョーンズの映画『エリック・ザ・バイキング』に出演することになった。役は奴隷を始終日本語でずっと叱ると言うスレイブマスター役で、「一体彼は何人なんだ、何でここにいるんだ」と突っ込まれる。なお、関根によれば台本の台詞(英語)を暗記していったところ、関根の罵詈雑言を交えたトーク芸を知っていたジョーンズからは「このシチュエーションにあわせた感じで、日本語で罵詈雑言を適当にしゃべってくれ。字幕はこっちで付ける」と言われ「さすがテリーだ」と笑ってしまったという。

■さんまのSUPERからくりTV(TBS系)では、司会のさんまにゲストで来ていた速水もこみちになったらどうするかと聞かれて、関根は意味もなく街中を歩くと答えた。その速水もこみちとは、CMで共演した。

■後述の通り歌のCDを発売したり、コサキンのラジオ番組で替え歌を披露しているが、お世辞にも歌唱力は高い方ではない。このことは本人も自覚しているようであり、「CDを出したのはレコード会社の人にうまく乗せられちゃった、若気の至りだった」と語っている。ただし小堺や、「コサキンDEワァオ!」にゲスト出演した和田昭治(元デュークエイセス。コサキンが若手の頃のボイストレーナーだった)は「関根さんは本当は歌が巧い」と言っている。

■関根・清水ミチコ・YOU・藤井隆は自他共に認める仲良しグループであり、「四季の会」と題した懇親会を季節ごとに行っている。内容は基本的に「おいしいものを食べながら、関根のバカ話・妄想話を聞く会」。関根曰く「(清水)ミっちゃんがお母さん役で暴走を止めてくれるので、安心して話せる」とのこと。

■「平成の適当男」こと高田純次とも仲がよく、番組で共演したり、高田のDVD「適当伝説」では副音声で高田と対談している。「高田のような先輩がいる限り頑張ろうと思える」と語っている関根だが、上記の「四季の会」で関根の妄想トークを聞いているYOUからは「関根は高田以下」と、ある意味貴重な評価をもらっている。

■関根の代表的モノマネの一つである長嶋茂雄は意外にもプロになってから習得したモノマネでありなおかつ関根のレパートリーの信条「その人物が大好き」で「自発的に」やり始めた物ではない。TV局でディレクターから新しいネタとして提案され、楽屋で数時間練習してそのままTVで披露したのがきっかけだったと「メレンゲの気持ち」で述懐している。ただし付け焼き刃でやった為に完成度は余りに低く、その後半年かけて現在の形にまで修練したという。


【ものまねのレパートリー】
非常に似てるものもあれば、似てないのものもあり(ラジオ「コサキン」では「似てねェモノマネ」が番組のコンセプトの一つでもある)、一部にはものまねと言い難いレパートリーも含まれるが、ファンからはそれが関根らしさ、と認知されている。

青木功
荒俣宏
宇津井健
おすぎ
ピーコ
関根と小堺がどちらかを担当して、「おすぎとピーコ」としてやることが多い。
大滝秀治
ジャイアント馬場(本人逝去のため封印)
ケント・デリカット
ウド鈴木
加山雄三
藤岡弘、
山崎弘也(アンタッチャブル)
安部譲二
中村玉緒
小倉優子
釈由美子
フリーディア (旧芸名:こずえ鈴)
高島忠夫
高嶋政伸
児玉清
長嶋茂雄
石原良純
輪島功一
織田裕二
内田有紀の母(想像)
安藤優子
聖徳太子(想像)
水森亜土
ヒロミ
浜田剛史
竹内力
C・W・ニコル
関口宏
ルー大柴
千葉真一
林家正蔵
松井秀喜
山口智充
ペリー(想像)
有田哲平
中居正広
水野晴郎
草野仁
村上弘明
伊集院光
山川恵里佳
ボビー・オロゴン
チェ・ホンマン
小野妹子(想像)
アーネスト・ホースト
フランシスコ・フィリォ
IKKO
手越祐也(マイ☆ボス マイ☆ヒーローの桜小路順の真似) 
平山あや
他多数

以下の6人に関してはラジオ「コサキン」の企画で本人の目の前でモノマネして、本人から直々にモノマネをしていいという公認をしてくれた芸能人である。
青田典子
若槻千夏
安めぐみ
大沢あかね
熊田曜子
小林綾子

(出典:Wikipedia)

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タモリ

タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、男性、1945年8月22日 - )はお笑いタレント・司会者。福岡県福岡市南区出身。血液型はO型。 身長161cm(*ジャングルTV〜タモリの法則〜の測定にて発覚)。靴の大きさ24cm。田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子は実の従妹。


【概要】
1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人BIG3の一人として数えられている。特に『笑っていいとも!』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2007年現在においても記録を更新している。多芸、多趣味であるが、特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。作家の小林信彦は、この点でトニー谷に近いと評したことがある。弟子希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断った。

芸名である「タモリ」は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常「タモリさん」「タモさん」と言われ、和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコといった親しい芸能人からは「タモちゃん」と呼ばれている。また、トリビアの泉で品評会会長に就任以降、高橋克実、八嶋智人、ビビる大木の3人からは会長と呼ばれている。


【趣味】
タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道、料理、坂道、BCL、アマチュア無線、武道、オーディオ、ダム、船舶などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「オッパイ星人」などの肩書きも自称している。

音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、膨大なレコードコレクションの散逸を防ぐために、その全てを一括して引き取っている(約5000枚)。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出すなどの音楽活動も行っている。フュージョンバンド「ザ・スクェア(現Tスクェア)」の初期アルバムにはトランペットやヴォーカルでゲスト参加している。

鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では『鉄道の事情通』とも言われる)。自身が司会を行う『森田一義アワー笑っていいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表と地図が置かれているという。自身が司会を担当する『タモリ倶楽部』でしばしば鉄道関係の企画を行っている。 ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他共に認めるハイレベルである。また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。

料理はプロ級の腕前であると評される。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンにこもって料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。 なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。

坂道については、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂をまわり、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が『タモリのTOKYO坂道美学入門』としてまとめられた。

「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という『創作変態論』を唱えている。また、バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はオッパイ星人」と発言している。

アマチュア無線では、コールサイン「JA6CSH」を取得していた(現在は失効)、当時、通話表での言い替えの代わりに「JA6・Cyah・Sukebe・Hentai」(キャースケベヘンタイ)と言っていたと言う。また、過去にラジオたんぱでBCL番組を担当していた実績も持つ。

武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している。

また、芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津のマンションに泊まり、釣りを楽しんでいるという。


【経歴】
1945年8月22日、福岡県福岡市南区に生まれる。福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、九州英数学舘にて1年間の浪人生活を送る。1965年に早稲田大学第一文学部西洋哲学科へ入学[1]。その後学費未納のため抹籍処分となる[2]。1968年に帰郷後、保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等の職を経て、ジャズピアニストの山下洋輔や赤塚不二夫らと出会い、再度上京。30歳で芸能界入りする。テレビ・ラジオで「ハナモゲラ語」や「イグアナ」のモノマネといった独自の芸を披露する。ラジオにおける発言等から各方面からの反発も受けたが、1982年から『笑っていいとも!』の司会に起用され、2007年現在に至るまで番組司会の長寿記録を更新しており、ラジオ・CM等においても芸能活動を続けている。

福岡市立高宮中学校出身の芸能人としては他に高橋真梨子、森口博子、氷川きよし、博多華丸がいる。

●デビュー以前
森田家は黒田藩の家老の家系で立派な塀に囲まれた屋敷を持ち、代々の当主は「森田のお殿様」と呼ばれている。 本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。これは祖父が尊敬している田中義一(陸軍軍人、昭和初期に立憲政友会総裁として首相をつとめる)にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。

幼少時代はおゆうぎが嫌だったために幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた[3]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。

早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、鈴木良雄らがいる。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、タモリのラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。ただし、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた[1]。

早稲田大学では吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間で暫し様子を窺ったが、勇気が無くて結局諦めたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。
福岡県に帰郷した後は、保険外交員・喫茶店従業員等の職を転々とする。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃は、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

山下洋輔との出会いは、1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だったときに始まる。当時の山下はライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。サックス奏者(資料によってはドラムス奏者とする場合もある[1]がこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら踊り始めた。中村はその非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。「この男はジャズファンに違いない」と確信した山下らジャズメンは、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[1]。開かれた独演会では「四ケ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。臨席したうちのひとりである漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。

バーでの一件の直後、赤塚不二夫自身が出演する生放送にそのまま連れて行って同様のパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚不二夫がコメントしている。タモリの居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるというものだった[1]。赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。

●芸能界入り
30才で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとする。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は常にアイパッチ(眼帯)を使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「密室芸人」という評も与えられていた。

当時の芸は「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナのモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語やベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。

1976年10月から1983年9月まで水曜1部に出演したラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』では、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさし、名古屋及び名古屋人などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」等とそれぞれに対して評した。名古屋出身者からも猛反発を受けたが、逆に名古屋の認知度上昇に貢献したとの意見もあり、肯定的に見る向きもある。その他、特産物や観光地が少ない埼玉県をダ埼玉と発言している。

ラジオ番組以外においても、『ザ・ベストテン』に臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到した。ただし『ザ・ベストテン』の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、長寿トーク番組『徹子の部屋』では、年末のタモリ出演とその際黒柳に新作モノマネを披露するのが恒例になっている。

こうした活動のほか、1977年には赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。団しん也や小松政夫も参加し、一時はビートたけしも参加していた。また、山本晋也監督の映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージや大ブレイク前のアルフィーらと共に出演している。

●『笑っていいとも!』以降
1982年からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『森田一義アワー笑っていいとも!』(以後『いいとも』と略)の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。関口宏、大橋巨泉らと並ぶ1980年代の名司会者と評する向きもある。以降は各種バラエティー番組の司会者としての活動が主となる。1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなるが、『タモリ倶楽部』でその点を補っているとする向きもあるが過激さを失った、という批判も根強く出ているのも事実である。しかし、「くだらなさ」についてはますます磨きがかかっているとの評価も多い。

『いいとも』におけるタモリの起用理由については、プロデューサーの横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。

『いいとも』出演以降は、眼帯の着用をやめ、主にレイバンサングラスを使用している。これが2007年現在に至るまでタモリのトレードマークになっている。『いいとも』以前は片眼に眼帯をしていることが多かったが、昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮から変更されたらしい。このサングラスは、昼番組と夜番組を併せて1983年、1990年、1991年、1996年、2001年、2002年の6回変わっている。『いいとも』開始当初から1996年までは「昼の番組で真っ黒なサングラスはどうか?」ということもあって、目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。いいとも以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2007年現在の『いいとも』を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また現在着用しているサングラスは俳優の内藤剛志からのプレゼントである。

ラジオにおける活動は、『いいとも』出演以降も行われている。『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズンにはニッポン放送にレギュラー番組を持つ。2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からはブリタモリ大百科事典に出演した。

その他、1983年12月31日にはデビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』の紅白総合司会を務める。2006年現在に至るまで、現役・元アナウンサー以外の紅白総合司会者はタモリのみである。1986年には、タモリの半生を描いた『歌と笑いの41年 戦後タモリ史』という番組が放送された。また、『いいとも』のフリートークで「疲れてるときにユンケル(栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケルを大量に贈られ、これをきっかけにユンケルのテレビCMにも出演するようになった。

いいともではよく、ゲストと話す際、「んなーこたーない」と言うことがあるため、コージー冨田などによくネタにされる。これは現在、アスキーアートにもなっている。


【事件・事故】
■1985年5月14日、筒井康隆全集全24巻の完結を記念したパーティーにおいて、「君が代」が演奏されるたびにタモリが昭和天皇の声帯模写をし、パーティーの最後にはそのままになり、二次会、三次会、翌朝5時までそれを続けた。 このパーティーの様子は翌週の「週刊読書人」にバッチリと掲載されることになり、それ以降タモリは右翼から脅迫を受け続け、最終的にはタモリの所属事務所、田辺エージェンシーの社長田邊昭知が監禁される事態にまで至った(筒井康隆もエッセイ「笑犬樓よりの眺望」にこのパーティーの様子を書いているが、一部の固有名詞が『伏字』になっている)。

■1990年某日、ヨットの柱に額をぶつけた。この事故でタモリは髪型を7:3分けから、現在のオールバックへ変えた。

■2000年5月6日、東京・目黒区で人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。

■2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ボールがサングラスのつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。『いいとも』は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、「ミュージックステーション」では、タモリとともに司会を務めているテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とこの日出演したアーティストが交代で特別司会を務めた。

■このほか、バイクでの事故経験もある。乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われた、とトークで語っている。


【『いいとも』におけるタモリ】
『いいとも』開始後間もなく、「たけし(ビートたけし)は大包茎。オシッコが真っ直ぐ飛ばない」と発言した。そのすぐ後の放送日に、「タモリさんさぁ、俺のこと包茎とか言ってたって?そりゃマズいだろ!」と、ビートたけしが番組に乱入した。当時レギュラーだった田中康夫に対しては「お前のことは前から気にいらねえんだよ!」と首を絞めて押し倒すなど、番組内で暴れた後に退散した。この件は、それまでタモリとビートたけしの共演がほとんどなかったこともあり、『いいとも』に興味を示さなかった視聴者層や芸能マスコミにも広く話題を呼んだ。この件について、ビートたけしは後に「あれはプロデューサーの横澤さんに頼まれたこと」と、ヤラセであることを暴露した。元来ビートたけしはタモリより先に『いいとも』の司会を頼まれたが辞退した経緯があり、開始当初人気が安定しなかった『いいとも』へのテコ入れとして、タモリと不仲説のあったたけしを番組に乱入させたらしい。ちなみにビートたけしは自分が包茎であることを『オールナイトニッポン』などでは何度もネタにしていたが、タモリの『オールナイトニッポン』に自分の歌を宣伝するために出演した折、番組に参加していた女性達に自分の局部を露出し、それを見た女性達に笑われた挙げ句タモリにも見せると「すごい包茎」と散々に突っ込まれていた。

出演者等の条件によって、タモリが必ず行う恒例の行事がいくつかある。間寛平が出演すると、お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回る(それだけでテレホンショッキングの時間のほとんどを使ったことがある)。テレホンショッキングでユースケサンタマリアから花が届くと「カタカナの人」と言う。また、毎年フジテレビ系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では、(自身が昨夜から総合司会を続けてきたかのごとく)「まあ、毎年この時間が一番、眠いんですよね」とタモリが発言し、他の出演者にツッコまれることも恒例となっている。

2003年6月27日のミュージックステーション(テレビ朝日系)で、t.A.T.u が番組を途中放棄するという事件が起きる。その後約1年間にわたり、「いいとも!」出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「タトゥーの話はするな!」と怒っていた。

2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』のテレフォンショッキングのコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。この時、司会は27時間テレビの総合司会を務めていたナインティナインの岡村隆史が行った。同じく総合司会だった矢部浩之と中居正広は観客席にいた。

2007年1月24日、アンジャッシュがゲスト出演し、流れの中で自然に「あるある」と言った際、「あんまり今、「あるある」って言うと…」と、渦中の納豆ダイエット問題の不祥事で放送自粛となり打ち切りとなった(2007年1月24日時点では打ち切りではなかった)「発掘!あるある大辞典II」を匂わす失言をし(増刊号では未放送)、後番組の「スタ☆メン」にレギュラー出演している爆笑問題の田中裕二が、「そういうことを言うことによって、またいろいろあるでしょ!」と、それ以上コメントをさせない様にした。失言に気付いたタモリはその後、お得意のデタラメ語を連発し、事態を揉み消した。

モーニング娘。に対しては5期加入してから「名前覚えるのもうやめる」「憶えるのやめた」とコメントしていた。以後、出演ゲストにはタモリの前ではモーニング娘。の話は禁止となっている。


【その他】
■座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など

■公式サイト・田辺エージェンシーの所属タレントでは、タモリのみ写真が掲載されていない。

■当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、田邊昭知が芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

■タモリ最初の所属事務所は、非公式ではあるが山下洋輔と「ジャックの豆の木」のA子女史が設立した「オフィス・ゴスミダ」。テレビと文化祭の二度の仕事だけで解散。このへんのタモリデビューのいきさつは『ピアノ弾き翔んだ』(山下洋輔、徳間書店、1978年)に詳しい。

■1980年代初頭においては、タモリとビートたけしの間に不仲説が存在した。タモリは「俺とたけしは仲が悪いと思っている人もいるみたいだけど、実は仲がいいんだよ」、たけしも「タモリさんの奥さんと俺の女房は仲がいい」などと発言したことがある。ただし、たけしは「タモリさんの奥さんが物凄く大きなダイヤの指輪をしていて、俺の女房の目に刺さりそうだった」と続けて笑いを取る場合が多かった。

■音楽番組の司会を長く勤めているため、玉置宏、芳村真理、黒柳徹子と並び、日本の歌謡曲歌手の事をよく知る芸能人、とする意見がある。

■よく言う冗談は「俺はジャニーズシニア」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」など。特に後者に関しては、ZOO解散前の最後のテレビ出演がMステとなったため、タモリも曲中のダンスに参加しスタジオを沸かせたという逸話を持つ。また、EXILE新メンバー募集の際には『MUSIC STATION』にて自らKAZUの加入を推奨していた。

■横澤彪によればタモリは30歳を超えて芸人に転向したこともあり驕り高ぶった所も見せず、「俺たち芸人なんか世間でまじめで働いてる人から見れば詐欺師稼業みたいなもんだ」というのが持論だという。

■普段は温厚であるが、かつて森脇健児が焼肉の網に肉を隙間なく並べたことに激怒した、と数回発言したことがある。しかしいずれも、本当に心から激怒していたとは思えない口調であり、とかく温厚なのだろうという見方もある。

■今の携帯はナインティナインの岡村隆史にプレゼントされたものであり、それまでタモリは携帯電話を持っていなかった。

■雑誌などの取材やインタビューはあまり受けないが、過去に「週刊朝日」の取材に答えた事がある。そのとき「いいとも」の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と答えている。実際に、「いいとも」では反省会を行っていない。

■俳優業にも一時期チャレンジしたが、今はやっていない。ナインティナインの岡村隆史が、ジャングルTVでタモリ主演のビデオカセットを見せたとき、「止めてくれ」と言った。どうやら、俳優業は自分に不向きだと思っているようである。最近ドラマに出たのは1991年の『世にも奇妙な物語』のエキストラ出演以来だか、他には2004年の『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』にデビュー当時のサングラスを外し、眼帯をつけた姿で一瞬だけ出演し、さらに2007年の『和田アキ子殺人事件』に本人役で出演した(ちなみにTBSのテレビは久々の出演である)。

■佐藤製薬のユンケル黄帝液シリーズに新発売当時からCMキャラクターとして起用されていたが降板後は同社の歯槽膿漏治療薬のアセスのCMキャラクターとして起用されている。同社にとって手放すには惜しみある存在。(注:タモリ降板後はイチローがユンケル黄帝液のCMキャラクターに起用されている。)

■ダウンタウンがいいともに初出演した際、ダウンタウンがいいとものコーナーにケチをつけまくったため、「うるさいなぁ…」とタモリが小声で言うと、浜田が「司会者が「うるさい」って!かなわんなぁ」と言い返したため、「本当にうるさいなあ!!」と怒鳴った。

■若いころは度のきつい丸型のメガネをかけていて、容姿は将棋の大山康晴名人に似ているとタモリ本人が認めている。

■小学校時代のあだ名は、なで肩だったことから「矢印」。(「いいとも!」にて自ら発言)

■「いいとも!」に要潤がゲスト出演した際、タモリは「俺は要潤に似ている」と自信に満ちて言って憚らなかった。

■新宿厚生年金会館横にあるJAZZ SPOT J(1978年開業)の設立メンバーで、80年代はよく顔を見せていた。オーナーと間違えられることが多かったが、タモリは取締役宣伝部長である。

(出典:Wikipedia)

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世にも奇妙な物語〜15周年の特別編〜

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陣内 智則

陣内 智則(じんない とものり、本名同じ、1974年2月22日-)は、日本のお笑い芸人であり、ピン芸人である。兵庫県加古川市出身。兵庫県立高砂南高等学校卒。身長168 cm。血液型A型。 1人コント形式で音声や映像に対してツッコミを入れるという独特なスタイルに定評がある。あだ名は「ジンくん」「ジンさん」、一時期はヨン様にあやかって「ジン様」と呼ばれて(呼ばせて?)いたこともあった。「とものり」の由来は「丸美屋」の「のりたま」から「のりとも」、「とものり」となったということをコントのネタにしていた。妻は女優の藤原紀香。義弟がいる。


【人物】
吉本興業大阪本社所属。大阪NSC11期生。同期には中川家、たむらけんじ、ケンドーコバヤシ、ハリガネロック、ルート33堂土、吉本新喜劇の烏川耕一などがいる。

尚、ココリコ・藤井隆らはデビュー年は一緒ながら、こちらがわずかに先であるため陣内側が後輩扱いとなる(学年的にも陣内の方が2つ下)。

クリエイターの原田専門家(彼も同じくNSC11期生)と共に作った映像や音声を駆使したネタにツッコミを入れるという、ピン芸人として今までに無いスタイルを確立。

3人兄弟の末っ子(兄と姉がいる)。

視力が悪く(両眼共に0.05であった)、以前はコンタクトレンズ・メガネを使用していたが、2007年4月にレーシックの施術により視力が両眼とも1.5にまでなった。


●タイガースファン? (角淳一との舌戦)
『ちちんぷいぷい』の司会者である角淳一とはいつも舌戦を繰り広げていた。プロ野球阪神応援番組『週刊トラトラタイガース』(読売テレビ)の司会に抜擢されるも、実は巨人ファンとの噂もある。本人は阪神ファンだと主張しているが、阪神に関する知識に曖昧な点も多く、松村邦洋やダンカンは陣内は本当は巨人ファンだと主張している。もっとも、この主張に関しては自分達の阪神キャラとしての地位を陣内に奪われるのではないかという危機感によるものとの声もある。私生活で赤星憲広、浅井良や阪神タイガースの若手選手との交流があり、元関西テレビアナウンサーの梅田淳の話によれば、陣内の結婚話が噂になった当日、梅田が阪神の赤星憲広に知らせたところ、赤星は「私、相当前から知ってましたよ」との返事が返ってきた。


●苗字について
名前の良く似た俳優の陣内孝則や、元バドミントン選手の陣内貴美子らとの血縁関係はないが、彼自身の実兄が"たかのり"という名前で、漢字では陣内孝則と一文字違いである(関西のラジオ番組では定番ネタで、日本テレビのバラエティ番組『カミングダウト』などで全国的に明らかに)。また、智則・孝則・貴美子の三人で、関西テレビの『陣内家』という単発番組で共演を果たしている。また、陣内の祖母が死に際に「うちの親戚には役者がいる」と陣内孝則との血縁関係がある主旨の発言をしたという噂があるが、陣内の祖母は生きている。


【経歴】
●NSC入学から「リミテッド」時代
地元の同級生と一緒にNSC大阪校の11期生として入学。同期は、中川家・ケンドーコバヤシ・たむらけんじ・ハリガネロック等。卒業後、その同級生と2人で「リミテッド」と言うコンビを結成(このコンビ名は陣内が「限界」という意味の「リミット」と間違って名付けたものである。「リミテッド」は「制限された」「わずかな」という意味の言葉であるが、本人は指摘されるまでこの勘違いに気付かなかったという)。心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動をスタートさせる。しかし当時の「リミテッド」は「2丁目劇場で一番おもんないコンビ」と言われ、余りのつまらなさに一時期はファンの間で「リミテッドを見ると不幸になる」とまで言われた。(しかし、そうは言われながらもファンの間では愛されていたという)結果コンビは、結成3年後の1995年9月に解散。相方は芸能界自体をも引退してしまった為、陣内自身はピン芸人への転向を余儀なくされる。


●ピン芸人としての再出発
リミテッド解散時、年末の若手ネタ番組「オールザッツ漫才」出演。若手芸人のトーナメント戦で欠員が出た為(相方の突然の不参加による)、陣内が急遽、進行役のオール巨人との協議の結果、1人でネタを披露するという場面があった。センターマイク前に1人で立ち、一発ネタを1人でただしゃべるだけだったが、なぜかウケにウケまくり、3回戦まで進出してしまった。しかし「リミテッド」解散のショックからなかなか立ち直れないでいたなか、ある日吉本側から「次のイベントでスベったら芸人を辞めろ」と、ついに“最期通告”を受ける。プレッシャーからネタ作りもままならず、開演数分前にようやく完成。そのイベントで今までに無いぐらい評判が良かったため、会社の彼に対する評価も一変。次々と仕事が舞い込むようになる。しかし「ネタは面白いのにしゃべりは絶望的」など批判も多かった。1999年10月スタートの情報番組「ちちんぷいぷい」(毎日放送)の月曜レギュラーに抜擢され、同曜日のかつての人気企画「クイズ私鉄沿線」で関西のおばちゃん層への知名度も徐々にアップ。深夜のバラエティ番組「クヮンガクッ」(同)での"レシートすごろく"(梅田をスタート、難波の高島屋をゴールに設定し(その距離はわずか数キロ)、道行く人にレシートを見せてもらい、そのレシートのお店へ行かなければならない。すぐ終わると思いきや日本のあちこちに飛ばされた。ロケ期間約5カ月、その距離15000km以上。東京から北九州を経て沖縄へ飛ばされ、ようやく大阪に帰ってきたと思いきや、次の人に北海道・千歳空港内の店のレシートを渡されたり、カナダの店のチケットを渡されるなど(これはプロデューサー会議の末、予算の都合で無効となった)、予測不能のハプニングが相次いだが、そのおかげで番組の人気コーナーとなる。ゴールは大歓声をもって迎えられた)は、その後「ノブナガ」(中部日本放送)で人気となったコーナー「地名しりとり」をはじめ、各局で類似の番組が多く制作されている伝説的企画となった。


●baseよしもと時代
1999年にbaseよしもとがオープン。FUJIWARA、シャンプーハットらとともに後輩らをまとめる役を買って出ることに。また、この頃から番組やイベントなどでの司会を任されるようになるが、そのなかでも圧倒的に毎日放送での仕事が多い時期があった。そのため、彼は「MBSの若獅子」「MBSと言えば陣内智則」と言われ、ケンドーコバヤシには「(当時同局アナウンサーの角淳一に媚びているのではないかという冷やかしで)角智則に改名しろ」と言わしめたほどであった。

また、2ちゃんねらーから「陣内志ね!(「死ね」ではない。「志」は、「氏」など"し"の読みをする他の漢字に変わることもある)」という"称号"を頂くようになった。これは、過去にオールザッツ漫才やbaseよしもとのイベントなどで、たむらけんじやケンドーコバヤシらが自分に比べて"売れている"陣内のことを「陣内死ね」と揶揄したことを半ば悪ふざけで使っているものであり、決して忌み嫌われているわけではなく、寧ろ陣内に対し好意的なイメージを持っている場合に使われる。


●base卒業後
現在はbaseよしもとを卒業し、うめだ花月やルミネtheよしもとなどで活動。また、2003年に「エンタの神様」(日本テレビ)に出演して以来、東京での仕事も増えているが、現在の彼の活動は平日は大阪で仕事をし、木曜日に「なるトモ!」の生放送と同番組の金曜分の収録が終わるやいなや、午後から新幹線や飛行機で移動し東京で番組収録(「エンタの神様」など多数)や、ルミネtheよしもとの公演をこなしている。また、朝日放送の日曜正午枠の「日曜笑劇場」には、『開運コメディ 今日も大吉!パンパンパン』からフットボールアワーらとともにレギュラー出演(主演)するようになり、『なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!』にも、引き続きフットボールアワーらとともにレギュラー出演(主演)している。

2004年からは、声優など他の仕事も舞い込むようになった。 映画「犬夜叉 紅蓮の蓬莱島」(2004年12月23日公開)では声優デビューを果たす。が、本人は原作を「読んだことがない」「犬が戦うマンガ?」とラジオで発言してしまう。また、実写では2005年に公開された映画「ビートキッズ」(HUNGRY DAYS、相武紗季ほか出演)に、半ば無理やり"大学生D"というエキストラで出演。テレビコマーシャルでは、兼ねてから好きだと公言していたゲームソフト「桃太郎電鉄」(ハドソン)の新シリーズ、「桃太郎電鉄USA」のコマーシャルに出演(若槻千夏、Psycho le Cemuと共演)。これが自身初のCMとなった。2005年4月4日、5年2ヵ月レギュラー出演していた関西ローカルの情報番組、「ちちんぷいぷい」を卒業した。 その後すぐ、日本テレビ系列の番組「ミンナのテレビ」・「世界!超マネー研究所」でレギュラー出演が決定。 両番組は2005年4月から9月まで放送されたが、それ以来、陣内は司会の立場で、全国区や関西ローカルのテレビに出演することが多くなってきている。また、関西ローカルで放送されている「なるトモ!」が2005年10月3日から日本テレビ、中京テレビ、広島テレビ、熊本県民テレビでもネットされるようになった。 2005年12月、映画「ブラック・ジャック ふたりの黒い医者」の声優も務めた。 爆笑オンエアバトルでは初出場にして、元番組最高記録537KB(満点で545KB)をたたきだした。(後にますだおかだが満点で記録更新。)その後16戦16勝という高記録でゴールドバトラーにのぼりつめた。

また、2005年12月31日開催の「輝け!ネタのグランプリ」で優勝し賞金1000万円を獲得した。このことから関西番組を中心に1000万取ったことでイジられることが増えている。

2006年1月19日放送の「なるトモ!」で番組開始から約1時間の遅刻をしてしまう。「陣内智則のひとり番長」生放送終了後、東京から大阪へ向かう新幹線で熟睡、下車する新大阪駅を乗り過ごしたことが直接の原因。この一件は大阪版スポーツ紙などでも報道された。


●藤原紀香との出会い・結婚
2006年4月に、日本テレビ系DRAMA COMPLEX「59番目のプロポーズ」にて陣内は、藤原紀香と出会うことになる。 ドラマ収録後の打ち上げの席で、陣内は藤原に手紙を渡し、そこから二人のお付き合いが始まる。

7月14日のヨシモト∞で、急性扁桃炎にかかっていると告白。声が出なかったためエンタの神様のスタッフに病院に連れて行かれ、ステロイド注射を打ったという。しかし、結局声は出ず「2年間ずっと眠い」という注射の副作用だけが残ることになった。なおこの日に藤原が渋谷∞ホールまで自分の料理したサムゲタンを届け扁桃炎で弱った陣内を元気付けた。(「恋のかま騒ぎ」より)

2006年末になって藤原との結婚の話でメディアに注目され、12月10日神戸市内の生田神社で結納を交わし、2007年2月17日に同神社で挙式(結婚式には、同期のケンドーコバヤシ・たむらけんじやなるトモ!で共演するなるみ・海原やすよ・ともこ・シャンプーハット小出水らが出席した)。この挙式の模様は、同日16:20-16:55によみうりテレビが放送(他には熊本県民テレビ(KKT)がネット)し、関西で18.2%という高視聴率を挙げた。交際をするにあたり、なるトモ!に出演している芸能リポーター駒井千佳子に相談していた。翌日に出演した「ルミネtheよしもと」では、生田神社の様な規制(但しコント出演中の写真撮影禁止)もなく、素でコントをしている所が見れたり、「ルミネtheよしもと」と「映画の試写会」では、「おめでとう」を言う人が多かった。また、結婚により藤原紀香の本名が「陣内紀香」となったが、藤原の方が全国的な知名度が高いため、テレビ等のネタで「藤原智則さん」と呼ばれたり、「いつ藤原姓になるの?」などと言われている。また、結婚を機に東京の藤原の部屋に引っ越し、「なるトモ!」の放送及び収録がある毎週月曜〜木曜は片道3時間にもわたる新幹線通勤を試行している。

2007年4月10日、陣内智則と藤原紀香は加古川市役所にて婚姻届を提出し正式に夫婦となった。


【出来事】
■2005年6月13日放送の行列の出来る法律相談所で、女優・田丸麻紀と交際宣言をしメールアドレスの交換も済ませニュースでも話題になったが、田丸からの返事はいつもそっけない返事ばかりだった。ある日ワイドショーに出演していた田丸に報道陣が「陣内さんと恋なんてことは?」と聞くと「それはないですね」と発言し、それをテレビで見ていた陣内は同法律番組で自身が相談者となって慰謝料を請求した。(これは陣内が田丸と交際するために、その頃交際していた彼女をテレビであっさり振ったところ、ファンやめますというファンレターが大量に届いたり、ライブを開いても空席だらけであったため。)※詳細は外部リンク

■生来の「天然」のせいで、2丁目時代には同事務所の千原兄弟、サバンナなど先輩・後輩問わずいじられまくっていた。特に親友のケンドーコバヤシは、陣内の家に泊まりに行って、「朝起きたらメガネを台所で炒める(それを見た陣内はメガネが炒められていることではなく、「お前かってに火を使うな!」と、かってにコンロを使っていることに怒った)」「メガネをマジックで真っ黒に塗る(その眼鏡をかけて陣内が最初に言った言葉は「世界終わった!!」)」「真夏に暖房をつけて寝ている陣内が出られないように外から玄関を封鎖する」などいじられっぷりは類を見ない。

■尾崎豊の大ファンだが、歌唱力はシャンプーハットのてつじや山田花子と同様、ひどいものである。

■営業などにおいては、一時期、コンビでもないのに同期のケンドーコバヤシとのセットが多く、周りもコンビと見紛うほどであった。彼とはプライベートでも息がピッタリ合っている。

■ある特番の収録中にツッコミのつもりでガッツ石松の頭をたたいたところ、ガッツは怒ってしまった。その後ガッツに謝罪して和解が成立したが、今でもガッツには頭が上がらないようである。

■ネタ番組「すんげー!Best10」で千原ジュニア、山下しげのりとともに披露した、「メガネ部」は、吉本興業の事務所スタッフ内でも伝説となっている。

■「すんげー!Best10」の中でしましまんずの池山心が、当時ピン芸人として瀬戸際に立たされていた陣内をネタに歌を作り、これが大うけしたことがある。歌詞は以下の通り。
♪ 陣内、君は支配人に「辞めろ」って言われたね。
だけど君は、その後こう言っていた。「支配人の方が辞めればいいのに」って。
負けるな陣内 君なら絶対できる 絶対できるよ、サラリーマン
負けるな陣内 君なら絶対売れる 絶対売れるよ ジャリズムが
ABCDEFじんな〜い

■東京に引っ越すまでは、よくチュートリアル徳井の自宅(同じマンション)に勝手に入って「桃太郎電鉄」をやっていたらしい。

■ロンドンハーツで陣内は携帯電話の電話帳で藤原紀香の事を「姫」と登録している事が分かった。

■2006年9月17日放送の「陣内智則のイケメン5in豪州」という番組で、後輩芸人のチュートリアル徳井がゲームに負けて、高さ50mからのバンジージャンプを飛ぶことになったが、徳井は恐怖で飛ぶことができず、番組成立のため自ら名乗り出て代わりにバンジーを飛んだ。また同日行われた、仲の良い後輩芸人ビッキーズ須知のために彼の結婚式の披露宴の司会を行った。

■2006年11月26日にはレイザーラモンHGの結婚式の披露宴の司会を行った。

(出典:Wikipedia)

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岩尾望(フットボールアワー)

岩尾望(いわお のぞむ、1975年12月19日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。フットボールアワーのボケ担当、相方は後藤輝基。愛称は「のんちゃん」。171cm。


【略歴】
■大阪府大阪市東住吉区出身。桃山学院高等学校、関西大学社会学部卒業。NSC14期生。

■1994年頃、NSC同期のカネシゲタカシ(現在は漫画家として活躍)とコンビ「ドレス」を結成。しかし1999年3月にコンビを解散、同年4月にちょうど同時期にコンビを解散していた後藤輝基と新しく「フットボールアワー」を結成。

■2003年、第3回M-1グランプリで優勝。これを足がかりに全国区に進出、現在に至る。


【特徴】
独特のシュールなボケが特徴。奇跡と呼ばれる顔面(後述)と演技力で、ネタでは様々なキャラに豹変する。発想の瞬発力に長けるが、自分から前に出て行く芸風ではないため、バラエティ番組のフリートークなどでは目立たないことが多い。しかしイジられると、その独特な発想をみせることもある。

《容貌》
マンスリーよしもとの吉本芸人ブサイクランキングで2003年から2005年の3年連続第1位となり、ほんこんに続き2人目の殿堂入りを果たした。その顔面は漫才のツカミに使われるほか、テレビ番組などでイジられることもある。しかし岩尾本人は自分をブサイクだと思っていない、と相方の後藤からは言われている。


また、頭頂部が寂しくなってきていることを揶揄されることもある。ただしこちらに関しては岩尾本人も気にしており、これ以上の進行を防ぐため、高価なシャンプーや育毛剤を使用している。

《性格》
人見知りな性格のため、芸人の友達はあまりいない。フットボールアワーを結成した際も、後藤が唯一の話せる友達であった。

臆病な面もある。嫌煙家。

(出典:Wikipedia)

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後藤輝基(フットボールアワー)

後藤輝基(ごとう てるもと、1974年6月18日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。大阪府大阪市東淀川区出身。フットボールアワーのツッコミ担当、相方は岩尾望。立ち位置は向かって右。血液型B型。


【経歴】
■大阪府立山田高等学校出身、大阪NSC14期生。

■NSCで同期だった天満国男と後藤・天満(後にエレキグラムと改名)を結成、1999年に解散。当時はボケを担当していた。

■1999年4月、NSCの同期で友人でもあった岩尾望と「フットボールアワー」を結成。ツッコミに転向。

■2006年4月、木村祐一と辺見えみりの結婚披露宴の司会を務めた。

■吉本男前ランキングでは2004年6位、2005年10位、2006年10位、2007年7位。


【特徴・性格】
■「?マジっすか!」での陣内智則やケンドーコバヤシとのやり取りから「鳥に似ている」「喋りが古くさい」(落語調の喋り方)というキャラが定着。“鳥のお化け”という通称はコバヤシの「後藤はファイティーに似ている」という発言を陣内が誤解説したことによる。

■ヘビースモーカーで、一日に5箱吸っていたこともあるほど(吸い過ぎで肺と背中が痛くなったため本数を減らした)。

■特技はエレキギター。野性爆弾、カネシゲタカシ(岩尾の前コンビ「ドレス」での相方)と「盆地で一位」と言うインディーズバンドを結成している。結成当初はイベントに頻繁に参加していたが、近年では「スケジュールによって出演したりしなかったりするボーナスキャラのような存在です」とカネシゲタカシにブログで表現されている。

■ギターの特技を生かして、少年カミカゼ和教の編曲の下、甲南大学会計大学院の校歌の作詞作曲を手がけた。ラジオ番組いきなりフットボールアワーの2006年7月27日放送内で完成版が披露された。

■趣味は超合金とミニカー集め。

■料理も得意。未来創造堂(2006年12月15日放送)では「美味しい塩ラーメンの作り方」、いきなりフットボールアワー(2006年10月19日放送)や、ジャイケルマクソン(2006年12月28日放送・吉本国勢調査2006)では自身の創作した「輝ちゃん鍋」の作り方を披露した。

(出典:Wikipedia)

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フットボールアワー

フットボールアワーは吉本興業所属のお笑いコンビである。2003年M-1グランプリ王者。


【メンバー】
■岩尾望(いわお のぞむ、1975年12月19日 - )
ボケ担当。立ち位置左。大阪府大阪市東住吉区出身。愛称は「のんちゃん」。

■後藤輝基(ごとう てるもと、1974年6月18日 - )
ツッコミ担当。立ち位置右。大阪府大阪市東淀川区出身。


【概要】
■共に大阪NSC14期生。岩尾はドレス、後藤は後藤・天満(その後エレキグラムと改名)というコンビを経て、1999年4月「後藤・岩尾」としてコンビ結成。同年5月、当時のうめだ花月シアター(現在のうめだ花月)で初舞台を踏み、同年7月「フットボールアワー」となる。コンビ名の由来は岩尾が読んでいた外国の小説の「月曜日のフットボールアワーに間に合わないよ」という科白から。

■結成翌年のABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を皮切りに、若手漫才師に与えられる数々の賞を総ナメにした。新人賞五冠を達成しているのはこれまでに彼らだけである。

■2003年8月、当時の主要メンバーと共にbaseよしもとを卒業。同年同月うめだ花月に移動した。だが、近年はうめだ花月に名義はあるものの、ルミネtheよしもとへの出演が多い。その中で2007年1月23日、約1年半ぶりにうめだスタンダードに出演した。

■2001年のM-1グランプリでは結成2年目にして決勝進出するも6位、2002年には2位(決勝では1位通過、後に審査員の松本人志は自身のラジオで「フットボールアワーが優勝しないとおかしい」と発言し、審査委員長の島田紳助も「1年でこんなに変わったコンビは見たことがない」と褒めた)、本命と言われた2003年大会で悲願の優勝を果たした。2006年にはV2を賭けて再び参戦したが、2位に終わっている。


【芸風・エピソード】
■岩尾のボケは基本的にシュールなものだが、後藤の分かりやすいツッコミにより、全体として正統派漫才としてのスタイルをとる。岩尾の飄々とした立ち振る舞いとユーモラスな外見もさることながら、後藤の簡潔かつ的確なツッコミにも定評がある。

■漫才の掴みとして、後藤が「ごめんなさいねーこんなブサイク連れて来て」「まだ何も言うてないのに笑ってる人がいますけど…」と相方をいじり、それに岩尾が「今日たまたまです」などとボケることがある。

■後藤が岩尾を「ブサイク」「ハゲ」などと形容することがあるが、元々は同期の友達同士で組んだコンビであり、誕生日にはプレゼントを渡しあうなど仲が良い。

■ネタ作りは二人で行う。

■2人ともボケ出身であったため、岩尾はコンビ結成当初ツッコミをやるつもりだったという。そして初めてのネタ作りの際、「ツッコミどっちがやる?」と聞いてきた岩尾に、後藤は「なんでやねん!」と一発目のツッコミを入れた。なお、後藤はエレキグラムと名乗る前の「天満・後藤」時代、同コンビのツッコミを担当していた。

■2人揃って長渕剛の大ファンであり、出演する「ナニワ音楽ショウ」(毎日放送ラジオ)でよく話題にのぼることが多い。

■baseよしもと時代の単独ライブには麒麟・レギュラー・シュガーライフ(解散、現在安達はカナリアとして活動)が出演することが多く、現在も親交が深い。また、次長課長のbaseでの単独ライブ23回全てに出演していた。

■出囃子は「BOOZ」/LOSALIOS。

(出典:Wikipedia)

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