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ダウンタウン

ダウンタウン(DOWNTOWN)は、吉本興業所属のお笑いコンビ。

【メンバー】
■松本 人志 (まつもと ひとし)
・兵庫県尼崎市潮江出身
・1963年9月8日生まれ
・血液型B型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 兵庫県立尼崎工業高等学校卒業
・主にボケ担当。独特の間合いと個性の強いキャラクターで浜田曰く「松本がダウンタウン。おれはダウンタウンを紹介しているだけ」とのこと。3人兄弟の末っ子(二男)。愛称は「松ちゃん(まっちゃん)」・「まっつん」(学生時代の友人らが使い、浜田も昔はそう呼んでいた)。出演のみならず自らの番組の企画・構成も行い、ソロとしても「人志松本のすべらない話」「働くおっさん劇場」などのテレビ番組の出演や、短編「頭頭」、DVDオリジナルコント短編集「VISUALBUM」などを制作し、2007年には初の映画監督作品『大日本人』を発表するなど、クリエイターとしての多彩な活躍を見せる。結婚歴なしの独身。

■浜田 雅功(はまだ まさとし、本名:M田雅功)
・大阪市浪速区生まれ
・兵庫県尼崎市育ち
・1963年5月11日生まれ
・血液型A型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 日生学園第二高等学校卒業
・主にツッコミ担当。愛称は「浜ちゃん」・「ハマタ」・「はまちょん」「M君」(浜ちゃん以外は学生時代の友人らが使う)。妻は元オナッターズでタレントの小川菜摘。際だってメリハリのある突っ込みが松本のボケと好対照を成し、ダウンタウンの魅力の重要な要素となっている。ソロとしては、テレビドラマの出演や、バラエティ番組「ジャンクSPORTS」、「浜ちゃんと!」など、司会業を中心に活躍している。

【概要】
個性が強いコンビの為、熱心なファンを多く獲得している。松本のシュールなネタと独特の間合いは、「ダウンタウン登場以降、漫才のスタイルがダウンタウンのコピーになってしまった」といわれるほど、以後のお笑い芸人(特に師匠を持たない新世代の芸人層)に大きな影響を与えた。上岡龍太郎をして「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは二人とも客よりも高い位置で話をやってる。これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と言わしめている。

また彼らは自己の世界観を共有するスタッフと番組制作を行うことが多く、ブレーン的位置にいる高須光聖や、ミュージシャンとしても活動する倉本美津留らの放送作家陣は、彼らの成功に無くてはならない存在であった。番組に出る際は大抵浜田はカジュアルな服装で、松本はスーツ姿で臨む。

二人とも干支がウサギ年で、ウサギ年の人に出会うとしばしば手をウサギの手のようにして少し前に出て「我らウサギ団!ピョン!」というネタを行う。

【出会い〜結成まで】
松本が通っていた小学校に浜田が転校して来たのが最初の出会い。互いに第一印象は良いものではなかったが、中学2年のときに放送部で一緒になり友情を深める。当時はお互いに“ツレ”と呼ぶ“相方”がいて、思い思いに同級生間で漫才を披露したりで過ごす。別々の高校に進学の為に交流は一時期疎遠となったが、一度浜田が高校の寮を脱走し、わずかなお金で松本に電話をかけ2〜3日かくまってもらうがすぐに高校教師につかまってしまう。高校卒業後、競艇選手の試験に落ちた浜田が、中学卒業当時に冗談混じりに「漫才組まへんか」と言った言葉を、当時既に印刷工の就職が決まっていた松本に改めて諭し説得(松紳より)。これに松本が応じる。当初松本は藤山寛美の印象と自由にやれる環境を指向し松竹芸能を希望するが、浜田の猛反対に遭う。結果、吉本総合芸能学院(NSC)に一期生として入学。師匠を持たないいわゆる「ノーブランド世代」のはしりでもある。同期にはトミーズ、ハイヒール、内場勝則、浜根隆、前田政二などがいる。「松本・浜田」「まさし・ひとし」「てるお・はるお」「ライト兄弟」とコンビ名は変わりつづけたが、1983年に喫茶店で開いた雑誌に記載された「ダウンタウン」と言う文字から(さんまのまんま)決め、ようやく定着する。「ライト兄弟」の名は飛行機好きの横山やすしから「飛行機をバカにしとんのか」と否定された。

【結成直後】
「2人が向かい合うように立って声を張らずに喋る」という彼ら独自の一見ダラダラした漫才スタイルを取っていたのは、当時の吉本でも大木こだま・ひびき辺りしかいなかった。彼らはまず漫才を本格的にスタートさせるに当たり、以前より最も好きな紳助・竜介の漫才テープを繰り返し聴いていた。その後自分たちの個性に合ったスタイルとテンポに換骨奪胎する形で移行していった。

紳助自身は新世代漫才のあるべく姿を「間を減らしたテンポの早い16ビートの漫才」と見ており、それゆえダウンタウンの登場当初は、その遅いテンポの漫才を「面白いが、果たしてこれが商品として成功するのだろうか?」と疑問を持って見ていた。しかし太平サブロー・シローと紳助・竜介、ダウンタウンとの10日間に渡る花月共演の際、ダウンタウンの漫才の高度さを紳助曰く「ピカソの域に達している」と大きな衝撃を受け、自己の限界を感じてその足で吉本本社へと出向き、漫才を引退する旨を伝えたことは有名である(以上ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から)

紳助は記者会見でダウンタウンの名前を挙げたが、新聞では「紳竜解散! サブローシローらには勝てない」と書かれ、当時まだ無名だったダウンタウンはあえなく報道からカットされてしまった。しかしこの一件から、まだ他の誰もそれほど取り上げる存在ではなかった当時のダウンタウンを的確にその将来性を見抜いて見せた紳助に尊敬の念を抱くこととなり、ダウンタウンとのつきあいはここから特別なものとなった。

【vs横山やすしにみるダウンタウンの漫才への姿勢】
ライト兄弟時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)にて、家庭内暴力を奨励するネタをやり、司会の横山やすしが「八尾のチンピラが立ち話しでもしとんのか!」と一喝した事実がある。この一件について松本は、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それの何が悪い」と、また「テンポ・間合いばかりを重視してしまうと面白いものが生まれなくなってしまう」とやすしの漫才への姿勢を著書において批判した。ちなみにダウンタウンとして漫才活動は、ビデオ「ダウンタウンの流」を最後に封印している。

【漫才師】
以前松本は「漫才師」という古めかしい肩書きを嫌い、「スーパーギャグメッセンジャー」などと自称していたこともある。その後は「お笑い芸人」「コメディアン」とする事が多い。

現在の松本は「もう漫才をやらないんですか? と聞かれることが多いけど、やるとかやらない以前に僕には漫才師の血が流れてる」と「漫才師」という職業への愛情を語り、一方浜田は自身をタレントやお笑い芸人とは言わずに「漫才師」と称している。(「欽ちゃんの仮装大賞」に出演時の松本の肩書きは、「松本人志(27) 2名 大阪府 漫才師」であった。)

【ダウンタウンのスタイルを育んだもの】
余り語られることがないが、松本の著書に記述されている通り、松本が尊敬する喜劇人として挙げる松竹芸能の故藤山寛美の影響が伺える。相手をいらつかせる独特のテンポと間は確かに松本の原点であるとも見える。松本は手放しで藤山寛美を称え、現在でも時折藤山の映像を見直すと言う(著作より)一方1980年代の雑誌「宝島」のインタビューでは自分のお笑いの背景を語っており、その一つにラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下RGS)を挙げている。ダウンタウンは後に、東京進出前にRGSと共演も果たしている。

RGSが演じる、不条理で無意味性を押し出したシュールな世界は所謂「明確なオチのない笑い」であり、微妙で奇妙な空気でエンドになる事が多い。舞台を主な活躍の場としていた彼らは、一切媚びがなく観客を突き放すようなスタイルは東京においてすら一部のお笑いマニア層の話題に上る程度の存在であり、ビートたけしからとんねるずへ繋がる「表舞台」でのバラエティ番組黄金期にあっては、最後まで主流になる事はなかった。

どちらかと言えば関西のお笑いとは対極にあったRGSに松本が傾倒していた点は興味深い。同誌でも「大阪はお笑いの中心地のように言われているが、逆に言えばお笑いには保守的で、新しい物を受け容れず、オチが明確で無ければ絶対認めない風潮がある。早く東京でやりたかった」と語っており、自己の目指すスタイルがRGSに見られた不条理・シュールな世界であることを述べている。

このRGS的なシュールさと藤山寛美のリズムを持った松本に、中田カウス・ボタンの中田ボタンの出演に通いづめることでツッコミに磨きを掛けた「努力の人」(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)浜田が出会うことで、ダウンタウンの全く独自のスタイルが完成された。浜田の存在は、ダウンタウンの漫才を一見関西スタイルの典型的なお笑いとして受け容れやすくし、また松本の凶暴でシュールな笑い感覚も「オトン・オカン」と言った尼崎発のベタベタな庶民感覚でコーティングすることによって、多くの観衆に受け入れられるものとなった。

1980年代の初期ダウンタウンは松本はまだヒキキャラで、現在の様にキレるスタイルは無く、浜田もまたバラエティでも荒く雑な突っ込みや悪態が多く、失敗を重ね、番組中に謝罪を求められる事もあった。しかし松本は元々のセンスに加えて努力を惜しまない。世間が「ダウンタウンは浜田の突っ込みが凄いのだ」と言われると敢えて浜田抜きの番組と舞台やVTR作品に臨み(寸止め海峡やVISUALBUMなど)「松本は若手を使わないと面白くない」と言われると「一人ごっつ」や「松風」等で答えを出してみせる。一方浜田は舞台の客が若年層が多いことを当初気にして、客が笑っていても自分で納得できない舞台があるとカウス・ボタンのボタンの突っ込みを客席の端から凝視し学んだ事もあった。番組でも失敗した状況に似た場面が再度訪れると確実に修正をした形跡を見る事もある。

つまり「才能のある人物が努力を惜しまないコンビ」がダウンタウンのもう一つの姿である。

ちなみに、漫才をカジュアルな格好で演じるスタイルはダウンタウンが始めたように言われているが、中田カウス・ボタンが関西では最初である。

ダウンタウンの漫才そのものが、いわばチェンジアップである松本のボケを基盤としており、間をずらすことでリアリティを意図的に作り出すスタイルであった事を考えると、それがそのままガキの使いで即興的に行われるフリートークに移行していったことは、ごく自然の成り行きであると言える(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)。

また、芸人でありながらタレントの要素が求められた場合、その部分の大半を浜田が請け負う。 松本はゲストを呼ぶ司会業の時に、まず浜田がズケズケつっ込んでいくのを見定めてから「この人(ゲスト)はここまではイケるんや」と、松本自身がボケの目安にしており、その観点における力量は浜田に信頼を寄せているという(「松紳」2004年6月9日放映より)。 元来、見知らぬ人と接することが苦手である松本にタレント的な役割を与えてしまうと、本業のお笑いへの良からぬ影響が懸念される。しかし、それを浜田が一手に担うことで、松本本来のお笑いの才能が発揮できる環境を整える。これにより、単なるタレント業だけない本格的お笑いコンビ、ダウンタウンが成立している。

【吉本内での東京進出における勢力争い】
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い〜の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。


吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。


第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。


マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。

【エンターテイメント】
松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。

浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。


【戦友・ウッチャンナンチャン】
同世代の吉本芸人(ハイヒール、トミーズ、ジミー大西など)以外の芸人との絡みがほとんどないダウンタウンだが、東京進出後のダウンタウンが出演する最初の代表番組となった『夢で逢えたら』で共演したウッチャンナンチャンとは仲が良い。90年代前期まではダウンタウンとウッチャンナンチャンが一緒に仕事をすることもしばしばであった。また互いの番組に出演するということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号などで一緒になるときは楽屋が一緒だったとのことである。

芸歴ではウッチャンナンチャンがダウンタウンより3年後輩で、年齢もダウンタウンの方が1歳上であるにも関わらず、『浜ちゃん』、『松っちゃん』と呼ばれていて、浜田・松本の二人もウンナンの二人を呼び捨てにせず、「ウッチャン」「ナンチャン」と呼んでいる。その為か、ウンナン一派の出川哲朗(出川は学年こそ同じだが、後輩であるため、『松本さん』、『浜田さん』と呼ぶことが多い)や勝俣州和との仕事も多く、最近では『リンカーン』でさまぁ〜ずとも共演している(『笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ'06』で松本は三村とコントも行った)。逆にダウンタウン一派のココリコや山崎邦正なども『ウンナンの気分は上々。』に出演したりしていた。

近年では殆ど共演が見られない両組だが、2003年に開催された第3回M1グランプリでは松本と南原がお笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、めったに見られないツーショットとして、当時からのファンを喜ばせた。2006年度第6回M1グランプリ決勝戦でも、南原清隆と隣の席で審査員を務め、貴重な2ショットを見せた。また、ミュージシャンとして、内村はポケットビスケッツやNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!』に度々出演し、共演を果たしている。またプライベートでは、南原の子供が生まれた際や内村の結婚に際し、祝福のメールを送ったとされる。一方で2対2の共演は1998年放送の『いろもん』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に9年近くない。

ちなみに松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのは嫌」と評している。また、自身の著書で「ウンナンがおれへんかったら、ダウンタウンは(売れるのが)もう少し時間がかかったんちゃうかなあって思いますよ。」と語っている。


【コンビ愛】
浜田・松本の2人はプライベートではあまり親密ではないが、不仲というわけではない。HEY!HEY!HEY!番組中にも語っているが、そもそも漫才コンビは彼らに限らず仕事で毎日のように会うために、プライベートでわざわざ会う必要が殆どないだけである。松本は「浜田の家には結婚してから行ったことがない」(著書より)「浜田の息子は赤ん坊の頃に見たぐらいで、それからは会ってない」(「ガキの使い」内での発言)と語り、その逆も同じと思われる。またコンビの不仲説は人気漫才コンビにおいて良くある噂である。

ちなみにお互いの携帯番号すら知らないらしい。2人が携帯電話で話したのは、『ごっつええ感じ』で浜田が怒り狂ってロッカーを蹴り右足を剥離骨折したさい、スタッフから番号を聞き出した松本が浜田に電話した、そのただ一度きりである。松本の「わざわざ電話すんのとか恥ずかしいわ」 発言から、家族と改めて電話をするのが恥ずかしいのと同じような感覚であると思われる。

二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々と喋り続けてしまうらしい。それを日本テレビの特番が逆手に取り、楽屋にダウンタウンが二人きりになってしまうというシチュエーションが用意されたこともある。

その一方で抱き合ったり、キスしたり、キャッチボールをしたり、笑顔で2ショット写真を撮るシーンが一年に数回放映される(テレビカメラの前、しかも共演者に要望されての行動であるが)。特筆すべきはその時の二人には躊躇や照れがほとんど感じられない点で、特別な絆を感じられずにはいられないほどである。そのアツアツぶりは時として観客から赤面の悲鳴が上がるほどである。

松本は「覚えたくはなかったが、浜田の誕生日だけは覚えてしまった」と言い、一方の浜田も「松本と別れることがあったら俺はお笑いはしない。最高の笑いを見続けて来たから、他の笑いなんてできない」という発言もしている。二人がお互いのことを尊敬しあっているのは事実であろう。

最近では、昔ほど気軽に付き合えなくなった互いの関係を少し寂しく思っていることが、『ガキの使い』等のトークで垣間見えることがある。かつて二人のグアム旅行の日程がかぶってしまったことがあるが、その期間中ずっと松本は意図的に浜田との遭遇を避けていた。それを聞いた浜田が「なんで話しかけてくれへんねんな」と聞くと松本は「なんかそれは照れくさいじゃないですか」と答えていた。

また、たまに浜田が風邪をひくと松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来れなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった。(ウンナン・南原やココリコ・田中の証言より)

松本は独身であり、女性関係の話題には事欠かないが、スキャンダルになる事を松本本人以上に浜田が気にかけている節があり、松本がネタとして自身の女性関係の話題を出すと、「今そんな事話さなくていいやろ」と、本気でフォロー、あるいは窘める事がある。逆に、松本は浜田が自分の女性関係などの話を「お前は独身やからええやん」とズケズケとネタにすることについて、「俺がすんのはええけどお前から振るなよ」という不満を若干持っている模様。


【「笑い」に対する姿勢】
彼らを評価する際に、「体を張る」という点が上がることが多い。芸人として芸能界入りした者も、売れるようになると司会業等をそつなくこなし、やがて「芸人」というよりは「タレント」と呼ぶべき存在になることが極めて多い(松本が「心の師匠」と仰ぐ島田紳助などが好例である)。ダウンタウンの二人も売れるようになった90年代には後輩芸人を高い位置からえげつないほどいじることが多く、PTAなどから批判の対象にされる事が多かった。しかし2000年頃を前後していじられ役になる事が若手芸人以上に多くなり、自身の番組において、着ぐるみを被る、鼻フック、生卵を額で割る、熱湯をかけられる、バリカンで髪を剃られる、真冬に半裸で海水浴、そして『ガキの使い』において周知の、尻叩き等の過酷な罰ゲーム等を自身にも課したりなど、吉本興業を代表する日本のエンターテインメント界の大御所でありながら、まるで若手芸人のように体を張って笑いを作る姿勢は大いに評価されるところであろう。松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。


【略歴】
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。(普通にちゃん付けで呼びづらい雰囲気だったという)

小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)、「見た途端に気を失った。目を覚ましたら浜田が近付いてきて、また気を失った」など。また「小学校5年生にして彼女がいたというなんというハレンチな男であろうか」(『遺書』より)という報告もある。逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた(周りの人曰く、「校内で一番面白かった」)。浜田も当時からコンビを組んでいた。中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。

浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので尼崎のニチイの階段で頭を抱え悩む浜田に、松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。

卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。この頃の事は、松本自身も「地獄」と語るほど精神的に叩きのめされた時期であるという。1人暮らしする金もなく、実家から電車で劇場に通う(しかも支給された電車賃はなぜか源泉が引かれていた)生活は、父親からくどくどと嫌味を言われ、母親からは同期のトミーズやハイヒールと比較されるなどのたまらない状況だった。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。『4時ですよーだ』の平日の午後4時の帯や、NHK大河ドラマの裏である日曜8時の『ごっつええ感じ』などバラエティー不毛の時間帯の歴史を塗り替えてきたことが、そのままダウンタウン成功の歴史と符合している。

『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて吉本を代表するタレントとなり、現在に至る。

(出典:Wikipedia)



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