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川田 広樹(ガレッジセール)

川田 広樹(かわた ひろき 1973年2月1日 - )は、吉本興業東京支社所属のお笑い芸人で、ガレッジセールのツッコミ担当。沖縄県那覇市出身。身長177cm、血液型A型。本名同じ。沖縄県立真和志高等学校卒業。2005年4月2日より、芸名を『川田』から本名である『川田広樹』に改める。因みに『川田』は”かわだ”ではなく”かわた”と濁らないのが沖縄での普通の読み方である。


【人物】
1995年に中学校の同級生であるゴリとコンビ結成。担当は主にツッコミ。ブレイクダンスもゴリに匹敵するほどであり、運動神経抜群である。

性格は控えめだが、かなりの天然ボケである。100円ショップで「これいくらですか?」と言ったり、東京に来て初めて電車に乗った時に手を挙げたなどというエピソードもある(恐らく沖縄の習慣『バスを止める時は手を挙げる』をそのまま実践してしまったのだろう)。また笑っていいとも!の放送終了後、他のメンバーと「叩いてかぶってじゃんけんぽん」をした際、何故かピコハンで自分の頭を叩いた(しかも2回)。 実は彼の母親も天然ボケであり、沖縄での凱旋ライブの時に母親が息子に挨拶したいとの理由でいきなり舞台に上がってきたことも。

売れない時期はロンドンブーツ1号2号の田村亮の自宅に住んでおり、2000年にバイク事故で田村亮が両腕を骨折した時には生活全般すべての世話をしていた。

2003年に大阪出身の女性と結婚し、2005年11月には娘が生まれた。


【裏話】
彼の母親も前述の通り天然ボケで有名だが、あるとき川田が北海道に営業に行った際『白い恋人』と間違えて『白い愛人』をお土産にねだったことがあるらしい。


(出典:Wikipedia)

ガレッジセール

ガレッジセール(Garage Sale)は日本のお笑いコンビ。所属事務所は吉本興業東京本社。「ガレージセール」で活動していたこともあった。略称「ガレッジ」。

【メンバー】
■川田広樹(かわた ひろき 1973年2月1日 - )
長野県岡谷市出身。生後9ヶ月からは沖縄県那覇市で育つ。A型。ツッコミ担当。愛称は「川ちゃん」。沖縄県立真和志高等学校卒業。

■ゴリ(本名:照屋 年之 てるや としゆき 1972年5月22日 - )
沖縄県那覇市出身、A型。ボケ担当。沖縄県立首里高等学校卒業、日本大学芸術学部中退。左利き。


【来歴・概要】
中学時代の同級生で、元々は別のコンビを結成していた。因みに、「中華人民共和国」ネタは、川田が組んでたコンビのネタである。

1995年 東京吉本総合学院(東京NSC)第1期生への入学を希望するが、既に入学受付は終了しており、係員から渋谷公園通り劇場への参加を勧められる。吉本では初舞台からが芸歴の始まりとカウントされるため、東京NSC第1期生である品川庄司はガレッジセールのことを先輩として接している(アメトーークより品川談)。

コンビ名は「ガレージセールのように気軽に売り出せる笑いを」の思いを込めて渋谷公園通り劇場の作家に命名してもらったもの。当初は「ガレージセール」であった。しかし、2人は当時、「ガレージセール」が言いにくく、最初のーの部分をッに変えたら言いやすかったという事から今の「ガレッジセール」になった。只、反抗の意味がないと言うわけでもない。ちなみに、ボツになった芸名としては「さとうきび畑でつかまえて」「具志堅ようこそ」がある。

その後ガレッジセールの2人は、ロンドンブーツ1号2号が司会の『ロンブー荘』(日本テレビ系深夜番組)をきっかけに出演機会を増やしていく。ちなみに川田・ゴリ共、『ロンブー荘』出演時は“年齢は共に19歳”という年齢詐称をしていた。この番組内で田村淳が本名で活動していた照屋を「ゴリ」と名付け、そのまま芸名として使うようになった。

その後自分たちの冠番組をもてるまでに成長した。今は「ゴリエ」と「川ちゃん」という、「ワンナイR&R」の番組から生まれた二人のキャラクターが人気を集めた。出身地の沖縄が舞台のNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』でも2人で出演していた。

ゴリの体力は凄まじく、鉄棒で大車輪を行ったりジャッキー・チェン並のアクションなどを行っている。

その一方で川田は、ボケ志向が強く、たまにボケたりもする。母親が天然ボケであったというのも要因の1つである。またバイクのテクニックはプロ並みである。

本来はショートコントが持ちネタであり、現在でもルミネtheよしもとなどの舞台で披露している。2002年ごろまではテレビ番組でも登場時にネタのブリッジである「エンダンス、エンダンス、エンダンス、エンダンス、エンダンス、ダンス、ダンス、ダンス、エンジョイプレイ」を行っていた。しばらく行っていなかったが、2005年12月23日放送の「鶴の間」スペシャルで久々に披露した。さらに最近では2007年6月7日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」で久しぶりに披露した。

2007年2月19日のフジテレビ森田一義アワー 笑っていいとも!で劇団ひとりが春一番のものまねをスベり(=ウケなかった)、番組終了後のトークで再現した際、「永六輔じゃねえかよ!!!!」とツッコミを入れた。結果として、吉本興業にとって、先輩芸人はもちろんの事、本社首脳でさえ口を憚るほど扱いづらい存在である永の名前を出した事となった(※この模様は同年2月25日の笑っていいとも!増刊号にて放送された)。


(出典:Wikipedia)

片岡鶴太郎

片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう、1954年12月21日 - )は、東京都荒川区西日暮里出身のタレント・俳優・歌手・画家。本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。所属事務所は太田プロダクション。


【概要】
《生い立ち》
10才のとき動物のものまねでフジテレビの素人参加番組にテレビ出演。その時のADが後に笑っていいとも!のプロデューサーとなる横澤彪だった。早くから芸人を志し高校へ進学するつもりだったが、家庭の経済事情で授業料の安い公立高校しか行けないと言われた。中学3年生の時、成績が下から2、3番だったが、夏休みの1ヶ月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入る。無事東京都立竹台高等学校に入学し演劇部に所属、3年次には部長を務めた。


《デビュー》
ゲスト出演した文化放送『くにまるワイド ごぜんさま〜』でのインタビューによると。高校卒業後、役者を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し、弟子入りを志願したが、清川の付き人から「男の付き人は採らないから」と断られ、弟子にしてもらう為にかなり粘ったが、最後には「警察を呼ぶ」と言われ断念。粘れば何とか弟子入りは許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまう。その後、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りする。声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる。

師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違う。だから、君に僕の芸はそのまま教えられない。」と、芸を教えてもらえなかったという。しかし、そば屋に連れて行ってもらった際、そばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋ではもりそばしか食べてはいけない」と、芸人としての「粋」を教えてもらったという。その師匠は、もりそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「早く売れる芸人になれよ」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は、師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と天丼を食べたい。」と決意するが、不幸にも売れ出した頃に師匠は亡くなってしまう。

岡鶴太郎の芸名でトランポリンの地方興行を行う。しかし、このままで終わってしまうと脱退。地方の温泉旅館で司会やものまねの仕事につく。旅館の老人には小森のおばちゃまのものまねはウケなかったが、鶴太郎の才能を理解してくれた座長の娘さんと上京、結婚した。


《全国区の人気》
その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』のコーナーで近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」のマネや浦辺粂子のものまねもしていた。当時は贅肉が多い体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す、被虐的なキャラクターだった。そのため、片岡鶴太郎がリアクション芸人の元祖だとの声もある。

また今でこそその芸風は払拭され全く見られないが、下ネタに関するトークなどをオールナイトフジでは多く露出し(おまるの中にかりんとうを入れて示すなど)、特に同番組内の”鶴太郎劇団”という寸劇を行うコーナーではよく女装をし(逆に共演の女子大生が男装)絡みのシーンを演じたり、はたまた劇の最後のオチでお決まりの全裸を女子大生に見せ付けるといった(井手らっきょもこの鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを用いたと後に説明)見るに耐えないキャラクターでもあった。「アブラギッシュな男No1」という不名誉な称号を得たのもこの頃である。

お茶の間に定着して以降、物まねではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし、小森和子、浦辺粂子、坂上二郎など多数。後年にも、宮路社長や横山弁護士ら、話題の人物を好んで演じてみせた。持ち前の器用さから、バラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には鶴太郎の造語「プッツン」が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた。


《多方面での活動》
元々歌が上手く、歌唱力の高さを活かして1980年代半ば頃まではコンスタントにシングルを発売していた。「IEKI(胃液)吐くまで」など名曲が多いが、オレたちひょうきん族などで歌わせてもらうも何故かヒットしなかった。逆にお世辞にも上手とは言えない明石家さんまが「真赤なウソ」や『タケちゃんマン』の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「幸せってなんだっけ」をヒットさせたことで、「何でさんまより歌の上手いオレの曲がヒットしないんだ…?」とぼやいていた(尚、鶴太郎は当時「ひょうきん族」の収録日である水曜日に生放送されていた「夜のヒットスタジオ」にも歌手として2度ほど出演実績を持っているが、さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない)。

1988年、プロボクサーテストを受験。ボクシングのプロテストは30歳までしか受験できないため、当時33歳だった鶴太郎には本来、受験資格がなかった。しかし、日本ボクシングコミッション(JBC)に懸命に頼み込んだところ、「合格しても試合には出場できない」という条件で、特別に受験させてもらうことができた。結果は"合格"。プロボクサーのライセンスを取得するも、JBCとの約束によりプロ選手としてリングに上がることはできなかった。即ち、彼にとってはプロテストでの実技試験(スパーリング)が最初で最後の"実戦"となった。プロボクサーを目指し、前年から減量を始め、これまでの"小太り"から急激にシャープな体型に変わった。プロテスト後は鬼塚勝也や畑山隆則のマネージャーとして、両氏の世界王座奪取に大きく貢献(タイトルマッチではセコンドを務める)。なお、ボクシングのプロテスト受験の理由は、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった。」という理由からである。

1988年公開の映画『異人たちとの夏』出演での数多くの受賞をきっかけとして、活動の軸足を俳優に移す。1991年のNHK大河ドラマ『太平記』の北条高時役は役者としての決定的評価を得ることになる。大河ドラマでは後年、『元禄繚乱』でも英一蝶役を怪演した。また家栽の人で、植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある判事役を、『ララバイ刑事』ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を好演。

最近では2時間サスペンスドラマの主役として活躍する機会が多い。特に『終着駅シリーズ』での牛尾正直は当たり役の一つ。

また、1990年代には横溝正史原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・金田一耕助役で毎年出演(計9本)し、石坂浩二や古谷一行らと並んで金田一役の代表的俳優の一角を占めることになった。

飲み友達だった志村けんの著書によると、「自分は物まねも中途半端だし、お笑いでたけしさんやさんまさんには敵わない。コントだって志村さんがいる。だから、俳優に行くしかないんだ」と、飲んでいる際に語ったとされている。が、この俳優への転身が揺るぎない評価に繋がっている事は言うまでもない。

『八丁堀の七人』では久々に山田邦子と共演している。街中で二人が揉めるシーンはどこか『オレたちひょうきん族』のコントを髣髴とさせた。

『笑っていいとも!』に出演の際、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に出てきた九官鳥がモデルとなってる。

1980年代には某女性タレントとの浮気が報道され、ビートたけしが「鶴太郎の野郎、この前カミさんがマンションに来てしょーがないから義理でやってたら隣の住人に『うるさいなー!毎日毎日!』と言われちゃった」としゃべり、当時の鶴太郎の人気のほどが伺えた。


【芸術家としての片岡鶴太郎】
タモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。

群馬県吾妻郡草津町、福島県福島市に美術館、石川県加賀市、佐賀県伊万里市に工藝館がある。

右利きだが、絵は必ず左手で描いている。これはボクシングでの構えが左手が前(オーソドックス)だったためらしい。

青森大学で芸術論を担当。2003〜2004年にはNHK「趣味悠々」で講師をつとめた。

最近では、ドラマの収録の合間に近所の人に請われ口紅一本で絵を描くこともある。


【松村邦洋との出会い】
鶴太郎は、福岡にあるテレビ西日本(TNC)を訪れた際に、そこでアルバイトをしていた中太りの青年と出会い、「君、たけしさんのものまねをしているよね。いいよ〜、面白いよ〜」と声をかけた人物は大学生の松村邦洋であった。この出会いで、松村は大学を中退、上京することとなった。 現在は松村にこの出会いをものまねされている。


【ものまねレパートリー】
■井上陽水
■浦辺粂子
■金子信雄(仁義なき戦いの親分風)
■具志堅用高(「ちょっちゅね」ものまねの元祖)
■小林旭(「チェッ」ものまねの元祖)
■小森和子(彼女の生前に多用していた。没後、ものまねを封印すると宣言)
■近藤正臣(「コンドーですっ」ものまねの元祖)
■近藤真彦(「マッチでーす」ものまねの元祖)
■坂上二郎(「飛びます、飛びます」ものまねの元祖)
■千昌夫
■たこ八郎
■塩沢とき
■山本晋也
他多数

(出典:Wikipedia)

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神奈月

神奈月(かんなづき、本名:奥村聡司(おくむら さとし)、1965年11月3日 - )は、岐阜県土岐市駄知町出身のものまねタレントである。特にスポーツ選手の物真似が得意。所属事務所は太田プロダクション。神無月の表記は誤り。


【プロフィール】
■血液型:B
■身長:172cm
■体重:68kg
■妻はエステ会社を経営している。


【略歴】
岐阜県土岐市駄知町出身。同じ土岐市出身フリーアナウンサーの近藤サト(元フジテレビ)と同じ地元高校出身だが、学年が3つ離れていたため、同時に在籍はしていない。在学時から、文化祭などで先生や芸能人のものまねを披露しており、生徒から人気があった。中京テレビの番組「5時SATマガジン」の「ローカルスターベストテン」というコーナーに連続でランクインし、第1位に輝いたこともある。

1987年にデビュー。師匠がないのでは仕事がとれぬからといわれ関東の形態模写のベテランであった佐々木つとむに師事したが同年9月師匠・佐々木が知人に惨殺される…という形で師匠を突然失ってしまった。佐々木没後しばらく芸能事務所に属さずフリーとして活動していた。フリーで活動中の頃、インチキ芸能プロダクションに騙されかける。2000年頃より太田プロに所属している。ものまねバトルには1995年春の第2回から毎回出場している。

長らく「長嶋茂雄のものまねしかしない人」のイメージがお茶の間に根付いていたものの、2000年にものまねバトル大賞で萩原流行のものまね(「りゅうこうと書いて、ながれと読むんです」)を披露したところ絶賛される。以降、長嶋茂雄のものまねの人、とのイメージは消え、近年はテレビ出演も増えている。

最近、石橋貴明やSMAPなどに気に入られているため「うたばん」の出演が多い。毎回武藤敬司のものまねで登場する。武藤以外にも萩原流行のまねをする。彼に会ってからは香取慎吾が神奈月のやる萩原流行のまねをしている。「おネプ!」や2005年9月15日放送の「うたばん」で萩原流行本人と共演した。また、「内村プロデュース」でジャッキー・チェンがゲスト出演した際は、映画賞コントのものまねプレゼンターとして参加。この時の芸達者ぶりにジャッキーが感心し、本来は審査対象外なのにジャッキーから優勝トロフィーを授与される名誉を授かっている。

武藤敬司のものまねに関しては、本人はもちろん、蝶野正洋からも「本物そっくり」とのお墨付きをいただいている。最近では武藤と共に握手会イベントなどに参加することまである。武藤のものまねをする時は、武藤の口癖「差し当たって、」を連発する。2006年3月21日には全日本プロレスのファン感謝デー興行で、武藤に扮して本物の武藤とタッグを結成。小島聡・イジリー岡田組(イジリーは三沢光晴に扮して登場)と、本当のプロレスの試合を行い、好評を得た。さらに同年12月15日のファン感謝デー興行では「F-1タッグ選手権(Fはフェイクの頭文字)」なる王座を賭けて再び武藤と「2人とも武藤」のタッグを組み、天山広吉・原口あきまさ組(原口は蝶野正洋に扮して登場)と対戦し勝利、同王座の初代王者となった。以降もF-1タッグは防衛をしており、最近の全日本の感謝祭興行では欠かせない人物になっている。最近では出演番組で「プロレスの仕事ばかりで辟易している」と発言することもあるが、上記の活動から見ればやはりプロレスを芯から愛していることが窺える。また2005年8月20日に放送された「リングの魂・橋本真也追悼スペシャル」には蝶野とともに武藤の扮装で登場。蝶野が神奈月に「じゃあ武藤さん!橋本の追悼興行、やりますからね」と言ったところ神奈月は武藤の真似で「俺はもうさ、蝶野がちゃんとやってくれるなら、そりゃやるよ!」と返した。すると蝶野は「いっつもそうなんだよ!自分は何にもやんないで全部他人にまかすんだから!」と呆れ、司会の南原清隆から「お前そんな所まで似てるのかよ!」と大爆笑された。アドリブで言った一言まで本人に似ているという稀有なモノマネ芸である。

「ぷっ」すまで披露した最新作の松坂大輔もその細かすぎる絶妙の描写のものまねはレベルが高いが、スタジオに女性が多かったせいか笑い声は少なかった。共演していた土田晃之は「神奈月さんは男受けするものまねしかやらないんですよ」と感心するやら呆れるやらの様子であった。

また、2006年10月公開の映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』に本人役で出演している。

「発掘!あるある大事典II」の納豆ダイエットの回に出演していた。納豆ダイエットに挑み2週間で-3.1kg減量しているが、これは納豆の成分のためではなく納豆をご飯にかけず食事前に食べることにより普段の7〜8分目で食事を済ませるようにしていたことが原因と考えられる。


【主なものまねレパートリー】
・長嶋茂雄(読売ジャイアンツ終身名誉監督)
・原辰徳(読売ジャイアンツ監督)
・石原良純(俳優、気象予報士)
・長州力(プロレスラー)
・新庄剛志(北海道日本ハムファイターズ、現引退)【2007年1月8日、ビナウォークライブで、「今年からはもうやらない」と宣言。】
・萩原流行(俳優)
・井上陽水(シンガーソングライター)
・五木ひろし(歌手)
・武藤敬司(プロレスラー)
・竹原慎二(タレント、元プロボクサー)
・船越英一郎(俳優)
・SIAM SHADE(ロックバンド)
・細木数子(占い師)
・渡辺謙(俳優)
・美輪明宏(シャンソン歌手)
・吉川晃司(歌手、俳優)
・馳浩(衆議院議員、元プロレスラー)
・中井貴一(俳優)
・フレディ・マーキュリー(クイーン)
・前田日明(格闘家)
・ピアノマン
・假屋崎省吾(華道家)
・福山雅治(歌手、俳優)
・森喜朗(元内閣総理大臣)
・山咲トオル(ホラー漫画家、タレント)
・クレヨンしんちゃん(アニメの主人公キャラクター)
・天海祐希(女優、テレビドラマ『女王の教室』の阿久津真矢役)
・琴欧洲(ブルガリア出身の大相撲力士)
・押切もえ(cancamの専属モデル)
・松坂大輔(西武ライオンズ、現ボストン・レッドソックス)
・野際陽子(女優)
・稲葉浩志(歌手)
・QUEEN(ロックバンド)
・葉加瀬太郎(音楽家)
あまりにもレパートリーが多いため、自身のエルグランドはひとり乗りでも衣装のせいで満員状態らしい。

(出典:Wikipedia)

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嘉門達夫

嘉門 達夫(かもん たつお、男性、1959年3月25日 - )は、日本のシンガーソングライター。代官山プロダクションの所属で、現在の所属レコード会社は傘下のDAIPRO-X。大阪府茨木市出身。血液型A型。本名:鳥飼 達夫(とりかい たつお)。


【略歴】
■1975年 - 大阪府立春日丘高等学校在学中(当時16歳)、笑福亭鶴光(当時26歳)に弟子入り。友人が運転するカブで鶴光を追跡し、弟子入りを志願。弟子入りが決まった当初の嘉門は高校在学中だったので、放課後師匠の家に行く所謂「通い弟子」であった。高校卒業後は鶴光邸に住み込み、“笑福亭 笑光”(しょうふくてい しょうこう)の名をもらう。所属は松竹芸能。

■1978年 - 『MBSヤングタウン』(以下「ヤンタン」)にレギュラー出演。

■1980年 - 笑福亭鶴光から破門を宣告され(理由は“エピソード”欄を参照)、担当番組も全て降板。松竹芸能も退社。その後「自らを見つめ直す」と言う理由で、程なくして日本放浪の旅へ。与論島やスキー場でアルバイトをしながら今の「ギャグソング」のスタイルに行き着き、自らの目指す方向性を確立する。

■1981年 - 日本を放浪の後に「次は海外へ放浪しようか」と考えていた頃にアミューズの大里洋吉会長に拾われ、サザンオールスターズの『チャコの海岸物語』をアミューズの契約社員として有線等への営業回りしていた。その縁でサザンのコンサートの打ち上げ等にも参加したりして、バンドフロントマンの桑田佳祐とも面識が出来る。その後桑田とも親しくなり、桑田に自らの芸名を考えて欲しいと依頼(桑田に依頼した理由は、所ジョージの芸名の名付け親が、ミュージシャンの宇崎竜童だったと言う話に起因していると、後に本人が語っている)。最初、桑田は“カメリア・ダイヤモンド”と言う名前を考えたが、その後、桑田が別の活動の時に使用していた“嘉門雄三”の苗字を譲り受ける(しかし当の桑田本人は譲った覚えは無いらしく、知らない内に嘉門が使っていたらしい)。以降、“嘉門 達夫”と名乗る様になった。その後、ヤンタンにも復帰する。

■1983年 - 『ヤンキーの兄ちゃんのうた』をリリース。読売テレビ有線放送大賞(大阪有線主催)とTBS有線大賞(キャンシステム主催)で新人賞受賞。

■1991年 - 『替え唄メドレー』が75万枚のセールスを記録。自身最大のヒット曲となる。

■1992年 - 『第43回NHK紅白歌合戦』に『替え唄メドレー〜紅白バージョン』で出場。

■1994年 - 1月1日に発売した『スモーキンブギレディース』を皮切りに、月に1枚のペースでシングルを出して行くという「マンスリーCDリリース計画」を開始。

■1997年 - ビクターから代官山プロの自社ブランド・DAIPRO-Xへと移籍。移籍第1弾『ソリャニャーゼセニョリータ』をリリース。

■1999年 - アルバム『お前は間違っとる!』をリリース。

■2000年 - トレードマークであった黒髪のオールバックから金髪へとイメージチェンジ。

■2002年 - 後にはなわに盗作疑惑がかかるという『ガッツ石松伝説』リリース。

■2003年 - 4月 デビュー20周年記念アルバム『達人伝説』をリリース。

■2003年 - 6月 初のDVDメディア作品『達人伝説』をリリース。

■2004年 - 11月 『シングルベストコレクション2』をリリース。

■2005年 - 4月 東京都立翔陽高等学校校歌『はばたけ!未来へ』作詞・作曲。

■2005年 - 1月 コロムビア時代の曲を集めたアルバム『嘉門達夫ゴールデンベスト』リリース。

■2006年 - 4月 『働くオジサン宣言 〜関白宣言〜』など収録したアルバム『笑撃王』をリリース。

■2006年 - 7月 USEN のパソコンテレビ・GyaOの番組『嘉門達夫のナリキン投稿天国』から誕生した“嘉門達夫とナリ天ボーイズ”が歌う『恋のチャルメラ ププッピ ドゥー!』をリリース。


【人物】
■テレビのトーク番組などに出演する際、番組の司会者たちと会談する時には普通の眼鏡を、替え唄を披露する時(即興は除く)には小さい丸淵のサングラスを装着する。そのため、歌う前あるいは歌い終わった後に即座に眼鏡を交換するシーンを視ることが出来る。

■CDレンタルに対しては極めて否定的で、露骨に嫌悪感を示している。本人曰く、「借りると呪われる」との主張。しかし、『爆裂スーパーファンタジー』の放送内では「レンタルで借りる人を余り悪く言うのも…」といった言動も見られ、ある程度の理解はある模様。同放送内では冗談を交えて自身のCDがレンタルされる事を語る事が多い為、本人なりのジョークであると考える事もできる。なお、『怒りのグルーヴ』では腹の立つファンの事例として「いつもCD、借りて聞いてます」と話しかけてくるファンを挙げている。

■「替え歌を作るたびに本人の所に出向いて曲の使用許可を得ていた」とテレビ番組に出演した際に語っていた。

■多くの人に「頭髪を後ろで結っていた時期が過去にあった」という誤解をされているらしく、「『あれ、後ろで結んでいた髪、切ったんですか?』とよく言われてしまう」とラジオ番組などで度々述べている。


《少年時代・1970年代のエピソード》
■幼少時代に日本万国博覧会(大阪万博)が近所で行われた際には毎日の様に通い、万博の記念バッジを貰ってコレクションしていた。『開運!なんでも鑑定団』に出演した際にそのバッジを鑑定してもらった所、15万円の鑑定額が付いた。嘉門は「このバッジは1000万円積まれても売らない」と言ったくらいそのバッジは大事に保管している。2005年に行われた愛・地球博にも出向き、ここでも多くのバッジを獲得している。また、大阪万博での思い出を歌った『太陽の塔』という歌もリリースしている。

■元々嘉門曰くの「ケッタイなモン」に対する収集欲は強く、「三ッ扇サイダー」を始めとするバッタモノドリンクや、ホテルや旅館の客室にある使い捨て小型チューブ歯磨き粉に、寿司の折り詰めに付いてくる小さな醤油の入れ物等も収集している。

■少年時代は、大阪万博と小学校当時担任だった先生の国語の授業に多大な影響を受ける(以後国語の成績は、常にトップクラスだったらしい)。また、山口百恵の大ファンで、追っかけをしていた高校生当時には、彼女が在籍する学校まで足を運んだ事もあると言う。

■嘉門自身がラジオの深夜放送にのめり込みだしたのは、中学生になってから。後に嘉門は『ヤンタン』のレギュラー出演者になるのだが、中学生頃の嘉門自身がヤンタンのヘビーリスナーであった。番組宛てにネタを投稿するハガキ職人として活躍し、ネタハガキの採用率も高かった様だ。そしてこの頃から、ラジオのパーソナリティになりたいという夢を抱く様になる。

■高校卒業後には鶴光の内弟子となる事が決まっていたが、春日丘高等学校は地元でも有数の進学校であり、クラスで大学に進学しないのは嘉門だけだったと言う。卒業式では答辞を務めたが、羽織袴でギャグを挟みながら生徒から集めたアンケートを元にディスクジョッキー式の答辞を行うと言う大胆な行動を取った。

■鶴光に弟子入りした理由は、落語には元々興味がなかったが、当時嘉門は桂三枝に憧れていたものの桂と言う屋号には魅力を感じず、同時に笑福亭仁鶴が出演していたラジオ番組『ABCヤングリクエスト』も良く聞いており、笑福亭と言う屋号には強い憧れがあったそうだ(尚、嘉門が現在でも、トークの合間に無駄口を叩いた後で「色んなコト言うたりなんかして」と口癖のように言ったり、投稿のハガキを読む際に「下品なペンネーム」に対していちいちツッコミを入れたりするのは、仁鶴譲りであるといえよう)。しかし、仁鶴には既に多くの弟子が居た為に、同じ笑福亭と言う屋号で当時ラジオで人気急上昇中だった鶴光に弟子入りを申し込んだと言う。ちなみに、もし仁鶴に弟子入りしていたら、名前を“笑福亭 加仁”(しょうふくてい かに)にしたいと妄想していた。鶴光に弟子入りした際に“笑福亭 光茶”(しょうふくてい こうちゃ)と名乗ろうとしたが、こちらは笑福亭松鶴(6代目、仁鶴・鶴光の師匠)に却下された。


《1980年代のエピソード》
■笑福亭鶴光に破門された原因は、「『サルに自慰行為を教えると死ぬまでやり続ける』と言う俗説の真偽を確かめる為、師匠のペットのサルを実験台にした事である」というのはネタである。ヤンタンやテレビ番組内での発言を総合すると、元々落語自体には余り興味が無かった嘉門は、鶴光へ一切報告せず落語以外の新しい仕事を増やし続けていたらしい。その内に嘉門自身が本当にやりたい事と落語家の弟子と言う立場が乖離し始め、仕事観を巡って師匠鶴光と対立し、鶴光に反抗的な態度を取った為に破門されたと言う事である。現在でも鶴光と共演する場合や、偶然同じ放送局で仕事をする事になった際には必ず彼の楽屋を訪ね、挨拶を欠かさないでいるとの事である(『ニッポン全国ラジベガス』出演時のコメントより)。

■笑福亭笑光時代にレギュラーで出演していた『ヤンタン』で、番組にゲストで訪れた男女3人組の某ニューミュージック系グループから放送開始前にアルバイトだと勘違いされ、そのような扱いを受けた。

■『ヤンキーの兄ちゃんのうた』以前の1982年に『寿限無No.1!』という幻のデビュー曲を発表しているが、売れたのはたった200枚だけだった。

■1989年11月21日発売のアルバム『バルセロナ』に『ハンバーガーショップ』という曲が収録されているが、元々は1989年頃にライブやテレビ放映で披露していた『××××××(某ハンバーガー店)キラー』という歌。ハンバーガー店のマニュアル教育上がりの店員に来客が戦いを挑むというシチュエーションを風刺した内容であったが(これに加え美容室バージョンも存在)、思いっきり名指しであったためタイトルと歌詞の一部を変えた『ハンバーガーショップ』としてリリースすることとなった。この曲はアルバム曲であるにも関わらず有線でよく掛かっている人気曲。その人気を経て、『血液型ハンバーガーショップ』や『ハンバーガーショップ(国会編)』などの続編も作られている。なお、1995年12月1日に『激突!ハンバーガーショップ』というタイトルで歌詞を一部変更してシングルとしてリリースされている。


《1990年代前半のエピソード》
■『替え唄メドレー』シリーズは多数の楽曲を扱っているが、中には著作権の問題などでCD化に至らない曲も多い。詳しくは替え唄メドレー#著作権問題などに関してを参照。

■一方、同シリーズ内で歌われた都市や観光名所(津市や下呂温泉など)からは、「地元の宣伝をしてもらえた」ということで感謝の意を表されることもあった。当時嘉門が出演していた中京テレビの深夜番組『ラジごめII金曜日の王様』1992年1月10日放送分では、下呂町役場の観光協会事務局長からの感謝状が番組宛てに届いていた。

■彼の曲の中でも完成度が高かった『サザエさんグラフィティ』は、『サザエさん』の原作者長谷川町子の存命中はCDリリース許可が得られず、ライブでは披露していたがCDリリースによる発表はまず無理だろうと思われていた。しかし、歌詞にあるきつい下ネタ部分などを一部差し替えた上で、後にこの曲が『NIPPONのサザエさん』としてCD化された時はファンを驚かせた。ライブでは今もこの曲を非認可バージョンの歌詞で歌う(こともある模様)。

■出身校・春日丘高等学校の後輩に槇原敬之がいる。嘉門と槇原でどちらが先に年末のNHK『紅白歌合戦』に出場するかを競ったが、槇原は1991年の紅白に出場が決定し、先を越される(嘉門は1992年の紅白に出場)。

■1993年以降は、自身が看板のラジオ番組の仕事とライブイベントなどの地方営業の仕事が中心となっており、テレビ番組への出演は一時期に比べると少なくなってきている。全国ネット番組への出演は特に少なく、あるとしてもゲスト出演で呼ばれることが殆どである。なお、2000年代からはインターネットラジオやインターネットテレビで看板番組を持つことが多くなってきている。


《阪神・淡路大震災でのエピソード》
■1995年1月17日、神戸市内のホテルに宿泊中、阪神・淡路大震災に遭う。当時、ホテルはパニック状態であったが、彼が芸能人であるという事に殆どの宿泊客が気付かぬ状況下で一宿泊客として自制を呼びかけ、その場を鎮めた。

■2日後、被災地から関西国際空港へフェリーで移動中に船内のテレビを見て、それまで断片的にしか分からなかった被害の全容を知り、大きな衝撃を受ける。その際、友人の北野誠に電話で「誠、俺は…。もうこれは世界の終わりや。一体どうなってしまうんや。もう俺自身はお金を持っていても意味はない」と胸の内を吐露し、即断で500万円の義捐金を被災地に送る。

■その後、さらに、新築の自宅を売却して捻出した3000万円の義捐金を被災地に送った。そして、この時の経験を基に書いた『怒りのグルーヴ 〜震災篇〜』をチャリティーシングルとしてリリースした。録音には、同じく被災者救済を訴えていた泉谷しげると大江千里も参加。曲中では、「スイスの犬より現地に来るのが遅かった当時の首相(村山富市)」や「焼け跡をバックに『まるで温泉場のようです』と言った白髪のニュースキャスター(筑紫哲也)」などを批判している。


《1997年以降の活動》
■1997年、所属事務所の代官山プロダクションが別途設立したDAIPRO-X(ダイプロ・エックス)へと移籍する。しかし、この移籍でますますCDの売り上げや話題性が減少しているため、1992年に紅白に出演出来たのは前所属レコード会社のビクターの力が大きかったものだと見られる。

■41歳を迎えた2001年、下顎の贅肉のたぷつき具合を指摘されたのを機にダイエットに挑戦。始めた当初、すでに芸能界を引退していた上岡龍太郎に「たった2キロでもつらいのに上岡さんはすごい。でも、体重を絞るために続けます」というメールを入れたところ、「君はジョギングを冒涜している。動物は楽しければ走りたくなる。何かの為に走るというのは走ること自体を馬鹿にしている」という返信で一喝された。それでもめげずに穀物を控え、蒸しモヤシにおかずを乗せて食べるという食生活を続けたところ、1ヶ月で体重が7kg落ち見事ダイエットに成功。現在もそのスタイルを維持しており、また、これを機に黒髪のオールバックから金髪へと変えた(以前からの定番だった黒服・サングラスのスタイルはそのまま継続)。

■ビクター時代のCDは、シングル・オリジナルアルバム共に現在全て廃盤となっている。2005年、そのビクター時代の音源を集めたベストアルバムが発売された。これは通常のレコード・CD店では扱っておらず、主に高速道路の各サービスエリア内にて販売されている。

■2005年1月5日(現地時間)、アメリカ合衆国ニューヨークのライブハウス・アポロシアターのステージに立つが観客からのブーイングによって強制退場させられた上、半年間出入り禁止のペナルティを受ける(これはブーイングが一定を越えた時の番組で設定されているルールであり、嘉門が特別受けたペナルティという訳ではない)。しかし、本人は再びチャレンジするつもりである。

■音楽以外の活動としては、2005年3月7日から始めたコラム連載(デイリースポーツ『嘉門達夫のオモシロ人間交友録』 - 毎週月曜掲載、
2006年10月からは毎週木曜掲載)、その他執筆活動がある。また、以前に自分の半生を描く演劇の企画が持ち上がった時は自身がその役を演じた。

■2006年には、JR西日本のイメージキャラクターに採用された。


《家族》
■今迄1度も結婚はしておらず、現在も独身。

■30代の頃からずっと独身をネタにしているが、実際は1992年に一般の女性と婚約するに至るまで進展した時期があった。当時、その女性を自身のコンサートに招待したり、自身の担当する番組『ラジごめII金曜日の王様』にも呼んで出演させたりしていた。しかし、お互いの微妙なズレが段々と出てしまったことにより、婚約は解消。このチャンスを逃したせいか、それ以降は結婚に関する話題は今のところ出ていない。

■独身のままでいる理由としては、「家庭に入りたいという女性を好きにならない」、かと言って「向上心が強い女性は自分第一だからダメ」といった自身の矛盾した価値観を挙げている。

■好きな女性のタイプは、「刺激を与えてくれる人」や「お互いに向上しあったりする人」。しかし、その理想像と前項の独身のままでいる理由である価値観とがさらに矛盾しているため、『ズバリ言うわよ!』(TBS系)2006年12月12日放送分に出演した際に、細木数子から「七変化の女性が欲しいのよ」と指摘された。

■その際に、細木から「頭が良すぎて人を小バカにするものが出てくる。自分がもう1つランクの気持ちを下げれば本当にいい人にも遭遇してるはず。だから結婚しなきゃダメ。来年からものすごいいい年になるから」とのアドバイスを受けた。

■また、細木から芸名を「嘉門」から「加門」へと改めるよう進言された。改めると画数が13画となる。が、嘉門本人は改名する気は全く無いらしい。

■自身は大阪府茨木市で生まれ育ったが、父は兵庫県西宮市の出身で、母は島根県大田市の出身である。

■兄弟は、弟と妹がいる。弟妹共に一般人なのだが、妹の方は一時期嘉門のファンクラブの会報に寄稿したり、当時嘉門が担当していたラジオ番組にゲストで出演したりした事がある。

■かつて「銭湯に行く」と言って外出したまま行方不明になった祖父をいつか捜しに行きたい、と嘉門は語っている。

(出典:Wikipedia)

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川島明(麒麟)

川島 明(かわしま あきら、1979年2月3日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。麒麟のボケ・ネタ作り担当。大阪NSC20期生。立ち位置は向かって右。相方は田村裕。


【概要】
■京都府宇治市出身。京都府立莵道高等学校卒業。血液型は不明。身長179cm。実家近くに住む祖母は漬物屋を運営している。現在は東京在住(相方の田村は、今も大阪在住)。

■あだ名はキラ、アキラ(自称)。しかし、家族からは「あきちゃん、ベリーちゃん」、祖母からは、幼少期に天然パーマのうえに目がクリクリだったことから「ベリーグッドマンちゃん」と呼ばれていた。また、相方から「あきちゃん、あきらちゃん」と時々呼ばれている。

■漫才やバラエティー以外に、ナレーターなどもこなす。

■視力が0.1以下で、小、中、高とビン底眼鏡を掛けていた。現在は、コンタクトを使用。


【芸風】
■漫才時は基本的に黒のスーツに黒のワイシャツを着ている。また、最近では黒のネクタイも装着し、真っ黒である。掴みに「麒麟です」とマイクに近づいて低い声で囁く。また、漫才が終わったあと床に手が付きそうなくらい深いお辞儀をする。

■漫才では、その美声を生かしてさまざまなキャラクターをこなす。レパートリーは、DJ、アナウンサー、MC、近所のオッサン、保育士、うさぎさん(うさぎっつぁん)、りすさん、くまさん、フランス人、おじいちゃんなど。また、靴音、心臓の音、ボイスチェンジャーを通した声、馬の嘶き、お箸箱のスライド音、バイクのエンジン音、風の音、iPodの音もれ、ワニワニパニック、現地人の通訳、ユニクロのCMのナレーター、たなかまきこなどさまざまな音の声帯模写も得意とする。ガッツ石松に関しては、似てないどころか真似る意志も無い。また、単独ライブ「キリン!キリン!キリン!」では川島明之丞、シニちゃんといったキャラを確立した。

■ネタ(ラジオのDJ)内で、「ア ハッピー ニュー イヤー」、「君に伝えたいこと」という歌を出したが、いずれも演奏時間はとても短く、曲調は全く同じである。

■大喜利が得意でダイナマイト関西によく出場している。

■現在は片方の目を隠すような髪型をしているため、「なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!」では、ゲゲゲの鬼太郎のマネをしたことがある。

■トークではツッコミ役となり、毒舌が出ることもある。

■口がとても大きく、VHSのビデオテープ・ルービックキューブが入る。ダウンタウンのガキの使いやあらへんででは、輪切りにしたレンコンを入れた。また、ハンバーガーを食べていた田村に「一口くれ」と言って食べようとしたら、「一口が半分以上やねん!」と叱られたこともある。舞台では、口に入れたビデオテープをパレット替わりにして相方田村の顔の絵を1分で描いた。


【低音】
■持ちネタの低音で囁く「麒麟です」は、タモリや後輩芸人のチーモンチョーチュウの菊地に真似されている。特にタモリは、芸人のギャグを本人の前で行う事はあっても、本人無しで真似することは珍しい。また、顔の前で横に手を動かしながら、「顔の裂け目が長い」と言われたこともある。他にも、とんねるずの木梨憲武にもとんねるずのみなさんのおかげでしたでよくモノマネをされている。

■2007年4月13日放送の史上最強のメガヒットカラオケBEST100 完璧に歌って1000万円!!で寺尾聰の「ルビーの指環」を歌ったところ、女性陣に低音の歌声を絶賛された(終盤で歌詞を間違え歌い切ることは出来なかった)。

■声変わりするまでは女性のようなとても高い声で現在とは正反対だった。

■好きな人にはよりイイ声を出そうとして低音の声がさらに低音になってしまい、バーで女の子を口説いた時には『何を言っているのか分からない』と言われてしまった。

■喉がつぶれた事が一回も無い(田村談)。学祭キングの彼等ではあるが、ネタを七本とフリートークを一時間した日がある。相方の田村裕は声が出なくなったにも関わらず、川島は大丈夫だったらしい。


【相方】
■相方の田村とコンビを組んだのは「アホが好きだから」と語る一方、「相方が一番格好良い」とも語る。相方とは仲が良い。

■夢は年をとっても田村と漫才をする事。将来は旅行しながら2人で漫才をして、旅行先でお金が無くなったらそこら辺で漫才をして、お金を取っ払いで貰ってまた違う旅館に行くこと。その夢を聞いた田村には、『ムリムリ、そんな時代ちゃう今』と笑われた。


【エピソード】
■元々人見知りが激しくいつも楽屋で一人だったが、次長課長の井上に声をかけられた事から心を開き始めた。井上を先輩の中で最も尊敬し、上下関係問わず最も親密な関係にある。現在もゲーマー仲間としてよく一緒に遊んでおり、番組で共演中もよく2人で喋っている姿が見られる。次長課長が東京へ行くことを知った時は、舞台本番中にも関わらず泣き出した。

■中学時代はサッカー部所属。よくしゃべる元気な少年で女の子にもモテたらしいが、その後、女性が苦手になったこともある。今では大分マシになっているようだが、現在でも女性の付爪が嫌い。

■ファーストキスの相手は合コンの相手で、初コンパで行った王様ゲームのお題によって奪われた。女性が苦手だったためかキスの直後に吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。

■テンションが上がったり、考え事をしたりしていると周りが見えなくなる。高校時代には、急な坂道をどこまでブレーキをかけずに下れるか数人の友人と競い合い、最後まで競い合った友人がブレーキをかけたのを見て安心し、自分はそのまま電信柱に突っ込んだ。また、ストリークのbase卒業ライブ後、麒麟も含め芸人だけでカラオケ屋で打ち上げをした際、部屋の扉のガラスを拳で割った上、「俺めっちゃ力ある!」とテンションが上がり膝蹴りまでお見舞いした(その後すぐに弁償した)。

■昔男性から痴漢を受けたことがある。(その時は持っていた漫画雑誌を相手にぶつけて逃走した)

■メールで絵文字は使わない。昔同じような物だろうと「卍」をつけてみたところドン引きされたのもひとつの原因らしい。

■NSC20期生時代、服屋に行った時に『何かお探しですか』といわれるのが嫌だったため、身だしなみに一切気を使っていなかった。

■人にいじられるのが嫌いだが、自称M(だが番組などではドSとしか思えないような言動が非常に多い)。

■動物が好きで、中でも犬が大好き。

■口癖は、「今週のファミ通読むとこないなぁ」。


【家族】
■幼い頃は祖母の家に住んでおり、実家は相方(田村)ほどではないが貧乏で、父親が2万円の給料を持って帰ってきたことがある。おばあちゃんっ子。

■「M-1グランプリ2004」でやったネタで「いかがでしたか僕らの漫才」という歌詞に対して、母が真似して「楽しかったよ麒麟の漫才」とメールを送ってきた。しかも、後で電話をかけて、同じ内容を歌ったらしい。

■ある日おばあちゃんが暗い顔をしていたので話を聞いたら実は漬物が嫌いと言う事が判明して(貧乏臭そうで嫌だかららしい)驚いた事がある。(アメトーークにて)


【その他】
■昔、アルバイトでハンバーグ屋に勤めていた。そこで1日3食分のハンバーグを貰ってずっと食べていたのでハンバーグ臭くなった。臭いを気にして銭湯に行き、体を拭いたタオルの臭いを嗅いだら、ハンバーグの臭いがした。

■27歳の時まで、「喪主(もしゅ)」をもぬしと読んでいた。ちなみにこれを漫才中に発言し、田村に突っ込まれたことがある。

■高校生の頃は存在感が全くなく、体育の授業を抜け出したりしても気づかれなかった。

■高校時代、ヒトラーの「我が闘争」を読み、性格が180度変わる。

■2007年6月11日、眞鍋かをりと熱愛中であると週刊誌に報道された。(きっかけは元々眞鍋が川島のファンであり、あるバラエティー番組で田村の貧乏エピソードの3択問題に見事答え川島と話せる権利をゲットする事が出来、アドレスも交換した。)そのため翌日にゲスト出演したラジオ番組東貴博のヤンピースやくりぃむしちゅーのオールナイトニッポンでは、その件で電話やメールなどでリスナーからかなりイジられていた。2007年6月26日の『踊る!さんま御殿!!』のオープニングで明石家さんまに同件を突っ込まれたが『彼女のメイクさんやスタイリストさんなどスタッフも交えて2回ほど食事を共にしただけ』と自ら釈明した。

■雑誌は毎回3冊程買っており、「趣味・ゲーム・女」雑誌。ちなみにファミ通は「ゲーム」のジャンルに入り、とても愛読している雑誌の1つである。(麒麟の部屋 より)


【ランキング】
■2003年、吉本男前ランキング7位

■2004年、吉本男前ランキング7位

■2005年、吉本男前ランキング4位

■2006年、吉本男前ランキング2位

■2007年、吉本男前ランキング2位

ブラックマヨネーズの吉田敬は川島がランキングされることに納得していない。吉田曰く、「若いころの鹿賀丈史」に似ている(余談ではあるが、川島の祖母もTVに出た鹿賀を孫と間違えて録画していた)。

■2006年、baseよしもと

■男前ランキング1位

■キスしたいと思う人ランキング1位

■ブサイクランキング13位

■キスされたくない人ランキング15位

■「Qさま!!」の10M高飛び込みで2分05秒という好成績を残す(絶叫系の乗り物やバンジージャンプなどは大の苦手にもかかわらずである)。柴田英嗣、KABA.ちゃん、西川晃啓、松本康太に次いで5位。


【特技・趣味】
■習字

■書道五段。

■イラスト

■ダーツ

■ギター(麒麟の部屋でギターを披露)。

■洗濯機が回るのを見ているのが好きらしい。

(出典:Wikipedia)

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