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田中卓志(アンガールズ)

田中 卓志(たなか たくし、1976年2月8日 - )は、お笑いコンビアンガールズのツッコミ・ネタ作り担当。まれにボケ。ワタナベエンターテインメント所属。血液型はB型。星座はみずがめ座。身長188cm(プロフィール上は187cm。「188だったら引くでしょ?」という理由で1cm詐称した)。体重58kg。体脂肪率5%(2006年11月現在)。視力は1.0。広島県府中市(旧・甲奴郡上下町)出身。


【来歴】
男3人兄弟の次男。兄弟の中で1番の高学歴・高身長である。広島県甲奴郡上下町(現:府中市)に生まれる。広島県立世羅高等学校から一浪して広島大学工学部第四類(建築系)卒。同大学大学院に合格していたが、それを蹴ってお笑いの道へ。山根良顕と、広島の大学の旅行サークルで知り合い、意気投合。2000年に山根とコンビ結成。2002年に、アンガールズとなる。山根の田中に対する第一印象は「似とるやつがおるなあ」。コンビ結成前は、広島市民球場でジュース販売のアルバイトをしていた。


【人物】
■実家は農場。

■家族構成は父、母、祖父、兄、弟、犬らしい。

■首に鶏にしかない筈の骨がある。と、思いきや。単に、姿勢が悪すぎて、そういう骨に見えるだけらしい。(2007年6月16日放送・グッドルッキンクラブより。)「このエピソードは面白いので隠しといてください。」と相方・山根が言っていた。

■山根と同様でこっぱち(額が広く少し出っ張っている様の事)で、絶対に禿げてきている訳ではない、と言い張っている。

■コントでは主に山根の勘違いに突っ込むという先輩のキャラクターを演じる。ネタ作り担当で、いつも渋谷の喫茶店「ルノアール」でネタ作りを行う。最近は渋谷とも限らない。要するにルノアールなら何処でも良いらしい。

■相方の山根が失敗をすると「な〜にやってんだよ山根!」と言う。

■好きな人は「デパートの一階にで働いている人」らしい。

■国連加盟国192ヶ国の首都を全部暗記している。

■特技は「野球拳のバックバンドのドラムのまね」と「パチンコ店員のアナウンスの真似」。「違う音を20回連続(ドカーン、バコーン、バンッ、ズドーン・・・・と言う感じ)で言う」と言うのもあったが世界まる見え!テレビ特捜部で実際やったら同じ音を言ってしまった事がある。(因みに唾がよく出てた)スポーツ実況の真似も密かな特技ということで、2006年2月17日放送の『爆笑問題の検索ちゃん』(テレビ朝日系)では、「田中の特技は何か?」というクイズがこの検索ページから出題されたが、本人も答えられず、実際に披露した「ドーハの悲劇の実況」はあまり特技といえないようである(本人の回答は「王貞治」だったがこちらの方が特技と言える特技であった)。

■趣味は紅茶と囲碁と読書、そしてツーリングである。中型免許を所持。現在の愛車はYAMAHAのTW200。

■ロバート・山本博、ドランクドラゴン・鈴木拓とぱっとしない同盟と称し、城巡り等小旅行を楽しむ。(「山本軍団」とも呼ばれる。)

■レミオロメンの神宮司治と仲がよく、声も似ているらしい。

■相方と正反対で煙草も酒も全く駄目だったが酒はビール位なら少しは飲める様になった。しかしすぐ寝てしまう。

■相方と違って倹約派。コツコツ貯金して、バイクやパソコン等高価な物を買う。ドケチ疑惑等も持ち上がっている。

■なよなよとしているが、小学生時代は空手(3級)、中学では陸上部所属など、意外にスポーツが出来る。

■広島大学の入試の物理では満点を取った。

■有名国立大学卒にもかかわらず、「クイズ!ヘキサゴンII」の予選ペーパーテストでは無名私立大学卒の相方にいつも負けてしまう。2006年12月27日放送分では、それを悔しがっていた。これは、ペーパーテストの問題に島田紳助が得意な文系の問題が多いことに関係しているとも思われる(田中は理系、山根は文系である)。

■ここ最近では、「ヘキサゴンII」でキレキャラ化しつつある。

■幼少期に「田中タクシー」(本名の「卓志」をもじったもの)と呼ばれ、からかわれていた事が爆笑問題のバク天!で発覚した。

■一番憧れている芸人は東野幸治である。これは相方の山根も同じ。

■ネタとして敢えてやっているのか、本心からそう思っているのかは分からないが勘違い発言が多く、自分のことを格好良いと思っている。その為か相方と違い女性にモテない。また、トーク番組での勘違い発言が相方に突っ込まれることも多い。

■ツッコミ担当だが恐ろしい程の天然ボケで、更に信じられない程のマイペースでもある。これらに関するエピソードは非常に多い。

■鼻声で滑舌が悪い。かなり特徴的な喋り声で、ホリに物真似されている。

■以前は洋服は殆ど事務所の先輩ふかわりょうのものであった。最近は相方がスタイリストを兼ねているのでセンスが良くなった。あとはファンのプレゼントのセンスの良さに頼っている。極度の寒がりで冬場はTシャツキャラからニットキャラに変る。

■相方同様、既製のズボンや長袖シャツ、特にスーツ等は、長過ぎる手足のせいで必ず寸足らずになってしまう。

■フリートークでは、特にエキサイトすると喋りながら両腕を動かすのも特徴。その様子は、明石家さんまからは「寿司を握っている」「大きな鯉を釣り上げた」などとギャグにされ、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)からは「カマキリ」と形容された。

■ネタやトークでエキサイトすると、喋りながらツバを飛ばす。更に涎や鼻水が出る。食事中も箸の持ち方やテーブルマナーはきちんとしているのに、口に入れた食べ物をボロボロこぼす。これらは歯が出ているせいだと思われる。

■2005年3月に放送された『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』復活SPの企画『芸能人社交ダンス部』で榊原郁恵とペアを組んだ。榊原が彼を選んだ理由は「可哀想だから」らしい。因みに相方の山根は選ばれず補欠だった。

■2005年5月に『金のA様×銀のA様』の企画で公式上映の招待状を獲得し、南仏カンヌで開催中のカンヌ国際映画祭で、レッドカーペットを歩いた。

■清涼飲料水『バブルマン』のCMの声を担当していた。母親も出演している。

■DVD『単独ライブ"88"』では田中の母親が電話で出演した。

■母親や祖父は彼の現状をあまり喜んでいなかったが最近はそうでもないらしい。

■実家から田中が買ったと思われるブラジャーが出てきたことがある。田中の部屋のタンスから出てきて、その部屋を掃除したお母さんが偶然発見した。田中はコントで使用するので買ったと弁明するも、相方の山根はブラジャーを使うコントは作っていないと断言しており、このブラジャーについては真意不明なままである。因みに出てきたブラジャーは3つでその中の黒の物はサイズがぴったりだったため、母親が使用しているそうだ。

■『ロンドンハーツ』で、『この男の子供は産みたくない』『キスが下手そうな男』で1位。『器の小さそうな男』で2位になっている。実際キスは確実に下手である。と何故か相方が知っている。

■ネタでなく、本当に人生のうちで1人の女性としか付き合った事がない。更に人生のうちで20回程(『お台場お笑い道』の罰ゲームで山根と2回、『少女B』のコント中でだいたひかると1回)しかキスの経験がない。しかも風俗店に行った事もない。田中にとって恋愛のバイブルは少女漫画の世界らしい。

■『めちゃ2イケてるッ!』のフジテレビ警察にバイクに乗ると高さオーバーになるという理由で道路交通法違反で逮捕されている(無論、本物でなく難癖による逮捕)。

■最近30歳になったと言う事で、体力が衰えないようにとボクシングを習い始めた。元々格闘技が好きなので、スポーツジムではなく、敢えてボクシングにしたらしい。

■最近「ようやく同年代の社会人の方位のお給料になった」ので、やっと風呂無し四畳半から人並みのマンションへ引越した。

■まだ童貞である(『「ぷっ」すま』でゲスト出演した時に彼本人が言っていた。)と語っていたが、2005年5月31日のライヴ『HANAWA JACK Vol.15』にて初体験について赤裸々に語ったことがあり、それによると初体験は22歳のときである。

■おぎやはぎの小木博明と仲が良い。2006年の24時間テレビではマラソンゴール直後「小木さーん!」と叫んだ(しかし小木はボウリングをしており、ゴールの瞬間を見ていなかった)。翌日海に連れて行ってもらったらしい。ただ、後に2006年年末番組で「すべった」と語っている

■ネプリーグでは田中が問題を考えている顔をみてネプチューンの堀内健が「楳図かずおの漫画に出てきそうな顔だよね!」と言った。すると、画面の下あたりに楳図かずおの漫画の絵が出てくる。非常に似ている。爆笑問題の検索ちゃんでは「それよりも楳図かずお本人に似てる」と言われた。

■かなりのビビリであり、ドッキリではターゲットにされることが多い(山根が仕掛け人になることもある)。だが実際の所、山根の方が相当なビビリであるためとも考えられる。

■相方と比べて割と歌がうまい。カラオケにもよく行くらしい。(ただキャラのせいか全く褒められない)

■「クイズ!ヘキサゴンII」で共演している山本モナに思いを寄せている。プライベートでもメールのやりとりや野球観戦に誘ったりしている(野球観戦のときは山口美沙が勝手についてきたが)が、島田紳助からは「田中(との恋愛)はカモフラージュやで」と言われている(その後、モナの元恋人の恋愛が週刊誌に掲載され紳助の読みは的中したかに思われたが、モナは後に「この恋愛は本命ではない」と発言したため、今のところは大丈夫のようである)。

■同番組のスペシャルのコーナー「嫌でもクイズに答えよう(早押し)ご指名クイズ」で代表者になった際、同じチームになったほしのあきや大桑マイミらの不正解続きに大激怒し、大爆笑を誘った。島田紳助は「この番組での田中はおもしろくて、好き」と絶賛された。

(出典:Wikipedia)

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ダイノジ

ダイノジは、大地洋輔 と 大谷ノブ彦 によるお笑いコンビである。吉本興業所属。同期にはモリマンなどがいる。

専門は漫才だが、コントもこなす。コントの場合、大地と大谷の担当が逆転する場合がある。


【メンバー】
■大地洋輔(おおち ようすけ、1972年7月13日 -)
本名…大地 洋介(読みは同じ)
血液型A型。主にツッコミ担当、但し、太った体型を武器にコントではボケに回ることもしばしばある。漫才でオレンジのつなぎをよく着ている為「オートバックスの店員」と呼ばれている。相方のすすめでボウズにしていた頃があったが最近は短めのマッシュルームカットをしている。
TBS「ビー・バップ・ハイスクール パート1・2」(2004年6月16日・2005年8月17日、大前均太郎役)
2006年、2007年エアギター世界チャンピオン。

■大谷 ノブ彦(おおたに のぶひこ、1972年6月8日 -)
本名…大谷 伸彦
血液型B型。主にボケ担当だが、コントではツッコミに回ることもある。
佐伯鶴城高校-明治大学文学部日本文学専攻卒
ここ数年でかなり太っている。
島田紳助の暴行事件の際には、それを正当化するかのような発言をした。

大地はダイチ→大地洋介→おおち→大地洋輔、大谷はビック谷→大谷伸彦→大谷ノブヒコ→大谷ノブ彦と4度改名している。理由は2006年に開運アドバイザー安斎勝洋に「今のままだと良いことが起きてもすぐ悪いことが起きる」とアドバイスを受けたからと、大地がエアギター世界大会2006で優勝したがその後、左足を骨折して「やばい」と思ったから。


【エピソード】
■共に大分県佐伯市出身。中学校時代の同級生である。卒業後は別々の道に進んだが、銀座で偶然肩がぶつかり再会したことがきっかけとなりコンビ結成。両方とも既婚である。

■コンビ名の由来は、「大地」、「大谷」、「大分県」の3つの「大」の字があったため。なおケツメイシの涙のPVでは大地が大谷にダイノジに寝るなよ、といったときに思いついたとされている。

■英語でコンビ名を表記する場合、よく使用される「dainoji」は誤った表記であり、「dienoji」が正しい表記である。「die」は文字通り日本語で「死」を表している。

■大地の母の名前は紀世(キヨ)。「大地のお母さん」では幾度も大谷から「キヨ」が連呼された。爆笑オンエアバトルの福岡収録に出演した際は、大地と大谷の母、共に会場に足を運んだ。

■大地は大谷に、ライブ中に大きな会場で大地の携帯電話番号を叫ばれた事があるが帰って確かめた大地の携帯には一件の留守録しか入っていなかった。それは小学生の声で「…良かった」の一言だったと言う。(九州の学園祭ライブのトークにて)

■大地は小学生の頃、保健室前に貼る肥満撲滅キャンペーンのポスターのモデルに選ばれた事がある。

■「芸能界ダレについていく?仁義なき派閥抗争スペシャルお笑い国盗りクイズ2006年春の陣」(TBS系)で大地は追放され別室に行かされそうになった時「僕を残してくれたら面白い一発ギャグやります!」と自らハードルを上げ大爆笑をさらった。MCの今田耕司から「自分からハードル上げて爆笑取れる芸人は珍しい、君ら売れるよ!」と絶賛された。

■大谷は怪談話を得意とし、2005年「ぷっちぬき」で怪談話で視聴率の記録を更新しまくった。霊感がまったくないので幽霊を見たことはない。

■品川庄司が1年後輩にあたり、昔はライバル扱いされていた事もある。銀座7丁目劇場終了間際、酔った大谷と品川がケンカになり、大谷は『品川庄司なんて名前くっつけただけのコンビ名じゃ売れるか!』と言ったらしい。

■大谷は大地から「ファンと結婚してんじゃねぇよ!」とツッコまれ、タジタジになったことがある。

■大地の方が大食漢のように思えるが、実際は大地よりも大谷の方がよく食べる。  

■M-1グランプリの決勝に出場した実力者。「M-1グランプリ2002」で決勝進出者が決定する時、審査員たちは最後の8組目を選出するにあたってダイノジにするか、スピードワゴンにするか意見が分かれ、この論議だけでかなり長引いたらしく、長い議論の末、僅差でダイノジの決勝進出が決定し、吉報を受けた瞬間大谷は号泣した。それを聞いて1番最初に「おめでとう!」と大谷に駆け寄ったのは、大谷の大親友で、不幸にも同じ当落路線にいたスピードワゴンの小沢一敬であった。スピードワゴンは自分達が決勝にいけない悔しさを惜しみ、ダイノジの決勝進出を称えた。だが、スピードワゴンは、ワイルドカード(敗者復活戦)で決勝進出。その発表は、ダイノジの出番直前で、それを聞いた大谷は「スピードワゴン、きたー!」とガッツポーズをとっていたという。決勝ネタはネタを一つ飛ばすなどのミスをしてしまい大スベり。翌年から仕事が減ってしまい本人達も相当引きずっていたらしい。


【虎のイラストのトレーナー】
■2005年ころから、2人そろって虎のイラストが大きく描かれた、大阪のオバチャンが着るようなトレーナー(あるいはセーター)を舞台衣装として着ることがある(通信販売で売られている物)。

■大谷は「キャラクター作りに迷っているところなんです」と言ったことがある。

■大地はその衣装を着て「エアギター世界大会2006」に出場した。

■通信販売の広告では「世界チャンピオンも着ている!」「紅白出場歌手も着ている!」という内容のうたい文句が出てきているらしい。


【ネタ・ギャグ】
■自分の芸風や世界観を大事にしているせいか、あまりテレビに出てくることはない。しかし、テレビに出ると、うきうきしている。その為、単純にテレビの仕事がないとも言われている。代表的なネタは「小西君」「大地のお母さん」など。漫才にも定評があり、若手のころにベテランといわれていた。

■ツカミとして「ウーン」と溜めて呼吸を合わせてジャンプしながら「ダーイッ!」と言って「大」の人文字をやる。ただし、たまに「ウーン」と溜めてからダチョウ倶楽部のツカミのギャグである「ヤー!!」(指をきちんと伸ばした両手を胸の前に出すポーズをとる)をやるというフェイントもする。

■「爆笑オンエアバトル」のチャンピオン大会決勝のネタで、大地がNHKのマスコットキャラであるどーもくんに襲われ、大谷がそのどーもくんにドロップキックをするというネタがあった。

■「爆笑オンエアバトル」の計量の場面では大谷は看護師の扮装(椎名林檎「本能」のPVを意識したもの?)で出たことがある。しかし、その回行ったネタでは看護師とは全く関係ないものだった。

■大地の体格を生かしたボケ・ツッコミが多く、「ほらこんなに額からとんこつスープを出しちゃって」というボケに「汗だよっ!!」というツッコミや、「その前足が…」というボケに「前足じゃなくて、手!」というツッコミ、「ヘイ、タクシー!」「手がみじけーよ!」などなど。

■「もてる〜」というネタがスピードワゴンの「甘い言葉」のネタと似ている為、ファンの間で議論された時期があった。先にやったのはダイノジでスピードワゴンがパクッたとよく言われるが、両コンビともに「別物」と考えている様で、和解もしている。

■最近は大地のエアギターをネタにしたり、同じ服で登場したりしている。

■また、やすしきよし、ツービート、青空球児・好児等の昭和の漫才師のパロディを意識したアレンジネタも行うようになっている。


【ダイノジと音楽】
■大地の兄がロックバンド(fOUL、ex.コーパスグラインダーズ,ex.BEYONDS)のドラムだったため、多数のインディーズ系バンドとの交友がある。また、スピードワゴンとネタに共通点があるせいか仲がよい。

■大谷の音楽に対する知識はハリガネロック,山口智充(DonDokoDon),恵俊彰(ホンジャマカ)などよりも豊富で、芸人一であるといわれ、MUSIC ON! TVにてナビゲーターを務める番組「ASAHI SUPER DRY THE LIVE SHOW」ではその知識を巧みに活用し、音楽好きの視聴者を唸らせている。

■茨城県ひたちなか市で行われる「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」には2003年にDJブースに芸人パフォーマンスの枠ができるようになって以来、全て出演しているが、2006年には芸人ではなくゲストDJとして出演し、大谷のナイスな選曲とおおちのダンスでDJブースを満杯にした(DJ前には漫才を披露した)。「COUNTDOWN JAPAN 05/06」でも他の若手芸人たちが大晦日生放送のテレビ番組でお茶の間を沸かせるなか、ゲストDJとして出演した。

■ヨシモトファンダンゴTVでは「DRF」(「Dienoji Rock Fes」の略)という番組を担当した。これは「俺たちのロックフェスを開催したい!」という願望から始まったもので、交流のあるロックバンドに交渉し、2004年に実際に番組タイトル名のロックフェスをクラブチッタ川崎でオールナイトイベントとして開催された。

■このイベントには怒髪天、ZAZEN BOYS、銀杏BOYZ、フラワーカンパニーズなどが出演した。

■2007年には「DRF vol.2」が同所で開催され、TRICERATOPS、小谷美紗子、銀杏BOYZ、フラワーカンパニーズ、THE COLLECTORS、THE BACK HORN、曽我部恵一などが出演した。

■2人ともかつてはコピーバンドを組んでいた。大谷はユニコーンのコピーバンドでギターを担当し、大地はBOØWYのコピーバンドでドラムを担当した。大地は「本当はギターをやりたかったのだが、体格のせいでドラムに追いやられた」と言ったことがある。

■大谷はブログでキャプテンストライダムを絶賛している。彼らのアルバムのCMに起用された。


【エアギター】
■大地は「エアギター日本大会2006」に出場し、2年連続世界大会4位の金剛地武志と同点優勝。その様子は「めざましテレビ」(2006/8/14放送)にて一部紹介された。さらに日本代表としてフィンランド・オウル市で行われる「エアギター世界大会2006」に出場し、初出場にして初優勝の快挙をとげた。

■披露した曲はJETの「Are You Gonna Be My Girl」。

■エアギター歴は日本大会の時点で2日だった。ギターについては全く弾けない。

■現地TV局でのインタビューでは「ニホンノサムライタマシイ」とコメントした。

■本人は「ずんぐりむっくりな体型がちょこちょこ動いている様が海外の人にウケたのでは?」と勝因を語った。

■「優勝後、スイスから営業の依頼が来た」らしい。また、ドイツからCMの専属キャラクターの話があったそうだが年間2万数千円のオファーであったため受けなかったらしい。

■帰国後、おかずが1品増えたらしい。

■JETの新アルバム「SHINE ON」の日本版CMに起用され、CMには大谷も「エアボーカル」として参加。

■2006年10月、大地はルミネtheよしもとの舞台で左足を骨折し、しばらくは動きの少ないスタイルや座ってできるスタイルでパフォーマンスをした。

■2006年紅白歌合戦にゲスト出演し、大地のエアギターと大谷のエアボーカルが披露された。「キムタクとハイタッチした!」と興奮気味に話していた。

■2007年2月、JETの武道館ライブにおいて、エアギター世界大会で使用した曲である「Are You Gonna Be My Girl」で共演を果たし、本人たちの前でエアパフォーマンスを披露した。

■2007年9月、「第12回エアギター世界選手権」で史上2人目となる大会2連覇を達成した。

(出典:Wikipedia)

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タモリ

タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、男性、1945年8月22日 - )はお笑いタレント・司会者。福岡県福岡市南区出身。血液型はO型。 身長161cm(*ジャングルTV〜タモリの法則〜の測定にて発覚)。靴の大きさ24cm。田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子は実の従妹。


【概要】
1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人BIG3の一人として数えられている。特に『笑っていいとも!』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2007年現在においても記録を更新している。多芸、多趣味であるが、特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。作家の小林信彦は、この点でトニー谷に近いと評したことがある。弟子希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断った。

芸名である「タモリ」は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常「タモリさん」「タモさん」と言われ、和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコといった親しい芸能人からは「タモちゃん」と呼ばれている。また、トリビアの泉で品評会会長に就任以降、高橋克実、八嶋智人、ビビる大木の3人からは会長と呼ばれている。


【趣味】
タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道、料理、坂道、BCL、アマチュア無線、武道、オーディオ、ダム、船舶などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「オッパイ星人」などの肩書きも自称している。

音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、膨大なレコードコレクションの散逸を防ぐために、その全てを一括して引き取っている(約5000枚)。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出すなどの音楽活動も行っている。フュージョンバンド「ザ・スクェア(現Tスクェア)」の初期アルバムにはトランペットやヴォーカルでゲスト参加している。

鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では『鉄道の事情通』とも言われる)。自身が司会を行う『森田一義アワー笑っていいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表と地図が置かれているという。自身が司会を担当する『タモリ倶楽部』でしばしば鉄道関係の企画を行っている。 ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他共に認めるハイレベルである。また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。

料理はプロ級の腕前であると評される。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンにこもって料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。 なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。

坂道については、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂をまわり、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が『タモリのTOKYO坂道美学入門』としてまとめられた。

「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という『創作変態論』を唱えている。また、バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はオッパイ星人」と発言している。

アマチュア無線では、コールサイン「JA6CSH」を取得していた(現在は失効)、当時、通話表での言い替えの代わりに「JA6・Cyah・Sukebe・Hentai」(キャースケベヘンタイ)と言っていたと言う。また、過去にラジオたんぱでBCL番組を担当していた実績も持つ。

武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している。

また、芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津のマンションに泊まり、釣りを楽しんでいるという。


【経歴】
1945年8月22日、福岡県福岡市南区に生まれる。福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、九州英数学舘にて1年間の浪人生活を送る。1965年に早稲田大学第一文学部西洋哲学科へ入学[1]。その後学費未納のため抹籍処分となる[2]。1968年に帰郷後、保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等の職を経て、ジャズピアニストの山下洋輔や赤塚不二夫らと出会い、再度上京。30歳で芸能界入りする。テレビ・ラジオで「ハナモゲラ語」や「イグアナ」のモノマネといった独自の芸を披露する。ラジオにおける発言等から各方面からの反発も受けたが、1982年から『笑っていいとも!』の司会に起用され、2007年現在に至るまで番組司会の長寿記録を更新しており、ラジオ・CM等においても芸能活動を続けている。

福岡市立高宮中学校出身の芸能人としては他に高橋真梨子、森口博子、氷川きよし、博多華丸がいる。

●デビュー以前
森田家は黒田藩の家老の家系で立派な塀に囲まれた屋敷を持ち、代々の当主は「森田のお殿様」と呼ばれている。 本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。これは祖父が尊敬している田中義一(陸軍軍人、昭和初期に立憲政友会総裁として首相をつとめる)にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。

幼少時代はおゆうぎが嫌だったために幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた[3]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。

早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、鈴木良雄らがいる。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、タモリのラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。ただし、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた[1]。

早稲田大学では吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間で暫し様子を窺ったが、勇気が無くて結局諦めたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。
福岡県に帰郷した後は、保険外交員・喫茶店従業員等の職を転々とする。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃は、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

山下洋輔との出会いは、1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だったときに始まる。当時の山下はライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。サックス奏者(資料によってはドラムス奏者とする場合もある[1]がこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら踊り始めた。中村はその非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。「この男はジャズファンに違いない」と確信した山下らジャズメンは、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[1]。開かれた独演会では「四ケ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。臨席したうちのひとりである漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。

バーでの一件の直後、赤塚不二夫自身が出演する生放送にそのまま連れて行って同様のパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚不二夫がコメントしている。タモリの居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるというものだった[1]。赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。

●芸能界入り
30才で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとする。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は常にアイパッチ(眼帯)を使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「密室芸人」という評も与えられていた。

当時の芸は「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナのモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語やベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。

1976年10月から1983年9月まで水曜1部に出演したラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』では、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさし、名古屋及び名古屋人などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」等とそれぞれに対して評した。名古屋出身者からも猛反発を受けたが、逆に名古屋の認知度上昇に貢献したとの意見もあり、肯定的に見る向きもある。その他、特産物や観光地が少ない埼玉県をダ埼玉と発言している。

ラジオ番組以外においても、『ザ・ベストテン』に臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到した。ただし『ザ・ベストテン』の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、長寿トーク番組『徹子の部屋』では、年末のタモリ出演とその際黒柳に新作モノマネを披露するのが恒例になっている。

こうした活動のほか、1977年には赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。団しん也や小松政夫も参加し、一時はビートたけしも参加していた。また、山本晋也監督の映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージや大ブレイク前のアルフィーらと共に出演している。

●『笑っていいとも!』以降
1982年からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『森田一義アワー笑っていいとも!』(以後『いいとも』と略)の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。関口宏、大橋巨泉らと並ぶ1980年代の名司会者と評する向きもある。以降は各種バラエティー番組の司会者としての活動が主となる。1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなるが、『タモリ倶楽部』でその点を補っているとする向きもあるが過激さを失った、という批判も根強く出ているのも事実である。しかし、「くだらなさ」についてはますます磨きがかかっているとの評価も多い。

『いいとも』におけるタモリの起用理由については、プロデューサーの横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。

『いいとも』出演以降は、眼帯の着用をやめ、主にレイバンサングラスを使用している。これが2007年現在に至るまでタモリのトレードマークになっている。『いいとも』以前は片眼に眼帯をしていることが多かったが、昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮から変更されたらしい。このサングラスは、昼番組と夜番組を併せて1983年、1990年、1991年、1996年、2001年、2002年の6回変わっている。『いいとも』開始当初から1996年までは「昼の番組で真っ黒なサングラスはどうか?」ということもあって、目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。いいとも以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2007年現在の『いいとも』を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また現在着用しているサングラスは俳優の内藤剛志からのプレゼントである。

ラジオにおける活動は、『いいとも』出演以降も行われている。『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズンにはニッポン放送にレギュラー番組を持つ。2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からはブリタモリ大百科事典に出演した。

その他、1983年12月31日にはデビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』の紅白総合司会を務める。2006年現在に至るまで、現役・元アナウンサー以外の紅白総合司会者はタモリのみである。1986年には、タモリの半生を描いた『歌と笑いの41年 戦後タモリ史』という番組が放送された。また、『いいとも』のフリートークで「疲れてるときにユンケル(栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケルを大量に贈られ、これをきっかけにユンケルのテレビCMにも出演するようになった。

いいともではよく、ゲストと話す際、「んなーこたーない」と言うことがあるため、コージー冨田などによくネタにされる。これは現在、アスキーアートにもなっている。


【事件・事故】
■1985年5月14日、筒井康隆全集全24巻の完結を記念したパーティーにおいて、「君が代」が演奏されるたびにタモリが昭和天皇の声帯模写をし、パーティーの最後にはそのままになり、二次会、三次会、翌朝5時までそれを続けた。 このパーティーの様子は翌週の「週刊読書人」にバッチリと掲載されることになり、それ以降タモリは右翼から脅迫を受け続け、最終的にはタモリの所属事務所、田辺エージェンシーの社長田邊昭知が監禁される事態にまで至った(筒井康隆もエッセイ「笑犬樓よりの眺望」にこのパーティーの様子を書いているが、一部の固有名詞が『伏字』になっている)。

■1990年某日、ヨットの柱に額をぶつけた。この事故でタモリは髪型を7:3分けから、現在のオールバックへ変えた。

■2000年5月6日、東京・目黒区で人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。

■2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ボールがサングラスのつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。『いいとも』は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、「ミュージックステーション」では、タモリとともに司会を務めているテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とこの日出演したアーティストが交代で特別司会を務めた。

■このほか、バイクでの事故経験もある。乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われた、とトークで語っている。


【『いいとも』におけるタモリ】
『いいとも』開始後間もなく、「たけし(ビートたけし)は大包茎。オシッコが真っ直ぐ飛ばない」と発言した。そのすぐ後の放送日に、「タモリさんさぁ、俺のこと包茎とか言ってたって?そりゃマズいだろ!」と、ビートたけしが番組に乱入した。当時レギュラーだった田中康夫に対しては「お前のことは前から気にいらねえんだよ!」と首を絞めて押し倒すなど、番組内で暴れた後に退散した。この件は、それまでタモリとビートたけしの共演がほとんどなかったこともあり、『いいとも』に興味を示さなかった視聴者層や芸能マスコミにも広く話題を呼んだ。この件について、ビートたけしは後に「あれはプロデューサーの横澤さんに頼まれたこと」と、ヤラセであることを暴露した。元来ビートたけしはタモリより先に『いいとも』の司会を頼まれたが辞退した経緯があり、開始当初人気が安定しなかった『いいとも』へのテコ入れとして、タモリと不仲説のあったたけしを番組に乱入させたらしい。ちなみにビートたけしは自分が包茎であることを『オールナイトニッポン』などでは何度もネタにしていたが、タモリの『オールナイトニッポン』に自分の歌を宣伝するために出演した折、番組に参加していた女性達に自分の局部を露出し、それを見た女性達に笑われた挙げ句タモリにも見せると「すごい包茎」と散々に突っ込まれていた。

出演者等の条件によって、タモリが必ず行う恒例の行事がいくつかある。間寛平が出演すると、お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回る(それだけでテレホンショッキングの時間のほとんどを使ったことがある)。テレホンショッキングでユースケサンタマリアから花が届くと「カタカナの人」と言う。また、毎年フジテレビ系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では、(自身が昨夜から総合司会を続けてきたかのごとく)「まあ、毎年この時間が一番、眠いんですよね」とタモリが発言し、他の出演者にツッコまれることも恒例となっている。

2003年6月27日のミュージックステーション(テレビ朝日系)で、t.A.T.u が番組を途中放棄するという事件が起きる。その後約1年間にわたり、「いいとも!」出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「タトゥーの話はするな!」と怒っていた。

2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』のテレフォンショッキングのコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。この時、司会は27時間テレビの総合司会を務めていたナインティナインの岡村隆史が行った。同じく総合司会だった矢部浩之と中居正広は観客席にいた。

2007年1月24日、アンジャッシュがゲスト出演し、流れの中で自然に「あるある」と言った際、「あんまり今、「あるある」って言うと…」と、渦中の納豆ダイエット問題の不祥事で放送自粛となり打ち切りとなった(2007年1月24日時点では打ち切りではなかった)「発掘!あるある大辞典II」を匂わす失言をし(増刊号では未放送)、後番組の「スタ☆メン」にレギュラー出演している爆笑問題の田中裕二が、「そういうことを言うことによって、またいろいろあるでしょ!」と、それ以上コメントをさせない様にした。失言に気付いたタモリはその後、お得意のデタラメ語を連発し、事態を揉み消した。

モーニング娘。に対しては5期加入してから「名前覚えるのもうやめる」「憶えるのやめた」とコメントしていた。以後、出演ゲストにはタモリの前ではモーニング娘。の話は禁止となっている。


【その他】
■座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など

■公式サイト・田辺エージェンシーの所属タレントでは、タモリのみ写真が掲載されていない。

■当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、田邊昭知が芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

■タモリ最初の所属事務所は、非公式ではあるが山下洋輔と「ジャックの豆の木」のA子女史が設立した「オフィス・ゴスミダ」。テレビと文化祭の二度の仕事だけで解散。このへんのタモリデビューのいきさつは『ピアノ弾き翔んだ』(山下洋輔、徳間書店、1978年)に詳しい。

■1980年代初頭においては、タモリとビートたけしの間に不仲説が存在した。タモリは「俺とたけしは仲が悪いと思っている人もいるみたいだけど、実は仲がいいんだよ」、たけしも「タモリさんの奥さんと俺の女房は仲がいい」などと発言したことがある。ただし、たけしは「タモリさんの奥さんが物凄く大きなダイヤの指輪をしていて、俺の女房の目に刺さりそうだった」と続けて笑いを取る場合が多かった。

■音楽番組の司会を長く勤めているため、玉置宏、芳村真理、黒柳徹子と並び、日本の歌謡曲歌手の事をよく知る芸能人、とする意見がある。

■よく言う冗談は「俺はジャニーズシニア」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」など。特に後者に関しては、ZOO解散前の最後のテレビ出演がMステとなったため、タモリも曲中のダンスに参加しスタジオを沸かせたという逸話を持つ。また、EXILE新メンバー募集の際には『MUSIC STATION』にて自らKAZUの加入を推奨していた。

■横澤彪によればタモリは30歳を超えて芸人に転向したこともあり驕り高ぶった所も見せず、「俺たち芸人なんか世間でまじめで働いてる人から見れば詐欺師稼業みたいなもんだ」というのが持論だという。

■普段は温厚であるが、かつて森脇健児が焼肉の網に肉を隙間なく並べたことに激怒した、と数回発言したことがある。しかしいずれも、本当に心から激怒していたとは思えない口調であり、とかく温厚なのだろうという見方もある。

■今の携帯はナインティナインの岡村隆史にプレゼントされたものであり、それまでタモリは携帯電話を持っていなかった。

■雑誌などの取材やインタビューはあまり受けないが、過去に「週刊朝日」の取材に答えた事がある。そのとき「いいとも」の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と答えている。実際に、「いいとも」では反省会を行っていない。

■俳優業にも一時期チャレンジしたが、今はやっていない。ナインティナインの岡村隆史が、ジャングルTVでタモリ主演のビデオカセットを見せたとき、「止めてくれ」と言った。どうやら、俳優業は自分に不向きだと思っているようである。最近ドラマに出たのは1991年の『世にも奇妙な物語』のエキストラ出演以来だか、他には2004年の『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』にデビュー当時のサングラスを外し、眼帯をつけた姿で一瞬だけ出演し、さらに2007年の『和田アキ子殺人事件』に本人役で出演した(ちなみにTBSのテレビは久々の出演である)。

■佐藤製薬のユンケル黄帝液シリーズに新発売当時からCMキャラクターとして起用されていたが降板後は同社の歯槽膿漏治療薬のアセスのCMキャラクターとして起用されている。同社にとって手放すには惜しみある存在。(注:タモリ降板後はイチローがユンケル黄帝液のCMキャラクターに起用されている。)

■ダウンタウンがいいともに初出演した際、ダウンタウンがいいとものコーナーにケチをつけまくったため、「うるさいなぁ…」とタモリが小声で言うと、浜田が「司会者が「うるさい」って!かなわんなぁ」と言い返したため、「本当にうるさいなあ!!」と怒鳴った。

■若いころは度のきつい丸型のメガネをかけていて、容姿は将棋の大山康晴名人に似ているとタモリ本人が認めている。

■小学校時代のあだ名は、なで肩だったことから「矢印」。(「いいとも!」にて自ら発言)

■「いいとも!」に要潤がゲスト出演した際、タモリは「俺は要潤に似ている」と自信に満ちて言って憚らなかった。

■新宿厚生年金会館横にあるJAZZ SPOT J(1978年開業)の設立メンバーで、80年代はよく顔を見せていた。オーナーと間違えられることが多かったが、タモリは取締役宣伝部長である。

(出典:Wikipedia)

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世にも奇妙な物語〜15周年の特別編〜

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ダチョウ倶楽部

ダチョウ倶楽部(ダチョウくらぶ)は日本のお笑いトリオ。所属事務所は太田プロダクション。出川哲朗らと並んで、俗に言う「リアクション芸人」の代表格である。


【メンバー】
■肥後克広(ひご かつひろ、1963年3月15日 - )
本名:同じ。
沖縄県出身。
血液型はAB型。
リーダー。

■寺門ジモン(てらかど じもん、1962年11月25日 - )
本名:寺門 義人(てらかど よしと)。
兵庫県川西市出身。
血液型はA型。

■上島竜兵(うえしま りゅうへい、1961年1月20日 - )
本名:上島 龍平(読みは同じ)。
兵庫県丹波市生まれ、中学から神戸市で過ごす。
血液型はAB型。
夫人はタレントで同じ事務所の広川ひかる。
愛称は「りゅうちゃん」。


【概要】
体を張ったリアクション芸や、“ヤー!!”、“ムッシュムラムラ”など同じ言葉を連呼するネタ、ものまねなどを得意とする。近年は各メンバー単独での活動も多いが、以前はピンの仕事でもギャラを三等分していた。

当初7、8人のグループで「キムチ倶楽部」と名乗っていたが、諸事情により現在のグループ名に改称する。「ダチョウ倶楽部」結成時は4人組で南部寅太(現:南部虎弾)がリーダーだったが、南部が脱退して電撃ネットワークを結成したため3人編成となる。南部脱退の理由については4人とも明確に語ろうとはしていないため、真相は不明であるが、語られている説としては、

■南部がメンバーに「金魚飲める?」「花火を背負いたい」「コントで使うオモチャのウンコを本物のウンコにしたい」など現在の電撃ネットワークの方向で行くことを要求したが、他の3人がそれを拒んだため。

■ひょうきん予備校に出演した際に、南部がスタッフから「面白いから先輩を怒らせろ」と言われたのをいいことに、大先輩であったハナ肇に対し「あなたは本当に面白くないですね」と言い、ハナ肇を本当に怒らせてしまったため、事務所から脱退させられた。

■南部がにテレビ番組で山本晋也に「山本監督は監督らしいことをしてないのに、どうして監督と呼ばれてるんですか?」と言ったところ、「本気で静か」に怒り、南部のみが番組降板となってしまい、後のダチョウ倶楽部強制脱退に繋がった。
というものがある。

南部脱退後、事務所の指示で最年少ながら一番背の高い肥後がリーダーとなった。それまでのダチョウ倶楽部のフロントマンは南部虎弾だったため、当時太田プロに在籍していた芸人の間では南部なしのダチョウ倶楽部の行く先が危ぶまれたという。ショーパブ、ライブなど経て、お笑い第三世代ブームでブレイクするもネタ番組では一本ネタはさせてもらえず、ショートコントばかりという扱いであった。3人になってからお笑いウルトラクイズにて再ブレイクする。

かつてネタでは上島がツッコミだったが笑福亭笑瓶の助言により、バラエティ番組では上島がボケとなる。

1993年10月から半年間、初めてゴールデンタイムで『王道バラエティ つかみはOK!』のメイン司会を担当するが、視聴者から抗議が殺到し(特に上島のドリカム・吉田美和のモノマネは大顰蹙を買った)、視聴率も苦戦したことからあっさり打ち切られる(次番組は「クイズ悪魔のささやき」)。以後テレビではメインではなくサブとしての出演が中心となる。

台湾では、「つかみはOK!」を放送していた頃、彼らをパクった「アヒル倶楽部」なる男性3人組お笑いグループがいた(ダチョウ倶楽部同様に細身2人にデブ1人という構成)。

1994年の24時間テレビのチャリティーマラソンでは3人同時に走った。

『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』(第5回)で普段と違う真剣な姿を見せ、強敵を次々と倒して見事優勝した。

全員関西以西の出身なのに、東京でデビューし、東京を活躍場所としているので、立場としては関東芸人とされている。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」に出演した際、「関東の人間として関西芸人には負けられないよ!」などと意気込みを語っていたが、浜田雅功から「お前ら全員西(日本)の人間やないかい!」とツッコまれていた。

1995年、ダチョーン倶楽部内の上島企画「目指せ! ヒット曲」に於いて、Club D名義でシングルCDを1枚リリースした。

2006年、CS放送テレ朝チャンネルにて「ダチョ・リブレ」がスタート。「竜兵会」「ネイチャージモン」の2部構成。「竜兵上島のオチのない話」などオリジナル企画を放送。

2007年1月14日放送の「いつみても波瀾万丈」に三人で出演し、これまでのエピソードを振り返ったが、ダチョウ倶楽部がかつて4人組であったということは触れられず、結成当時の写真が映された時に南部の顔はモザイクで消されていた。

《余談》
土田晃之が、「この3人はそれぞれが面白いエピソードをたくさん持っている。だけどトーク番組などで、この3人から面白いエピソードをあまり聞かない。その理由は、3人が全員、そのエピソードを話す話術を持っていないから。つまりダチョウ倶楽部という人たちは、話術を持っていない3人が集まったグループである。」と評したことがある。

志村けんと多数の共演ができるようになったきっかけはプロレスラーの川田利明である。 川田が上島を志村に紹介した。メンバーは川田にとても感謝している。

書籍「リアクションスター」の中にダチョウ倶楽部の3人を模したキャラが登場している。


【主なギャグ】
ウケる、ウケないではなく、もはや伝統芸の領域に入ってきている。特にリアクション芸については、一見めちゃくちゃなように見えてリアクションの際はカメラを凝視、限界の状況でも常に安全を確認、かつ最低限のマージンを取って芸に臨む姿勢は他の芸人には真似できないことである。アメトークではリアクション芸人講座を開き、リアクションシーン直前にカメラに写りこまない部分で行われる準備、リアクション中の様々なテクニックや、流れるようなフォーメーションが随所に織り込まれていることを明かした。

■「聞いてないよォ」(1993年流行語大賞大衆部門・銀賞)

■彼らを一躍スターダムに押し上げた「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(日本テレビ)で生まれたギャグ。最初は本当にこれから行われる企画をまったく聞いておらず、その企画で受けたあまりに過酷な仕打ちから、本心で「聞いてないよォ」とポロリと言ったことから生まれた。その後、同番組で受ける企画がどんどん過激かつ過酷になるにつれて、本当にケガなどしたら危ないということで企画会議の段階から参加するようになったといわれる。よって、定番化した頃にはあらかじめ知っていたのに白々しく吐くギャグとして認知されるようになった。一世風靡したこのギャグだが、近年は披露されていない。

■「(上島)俺は絶対やらないぞ!(肥後)お前やらないの?じゃあ俺がやるよ!(寺門)いやここは俺がやるよ! (上島)・・・じゃあ俺がやるよ。(肥後&寺門)どうぞどうぞどうぞ!」

■熱いおでんを食べるなどの過酷な企画を誰がやるか決める時のギャグ。他の芸人と一緒にこのギャグをやることもある。

■「ナイナイナ」(テレビ朝日)の企画で偶発的に生まれた。逆さバンジージャンプなどのスタントをやる人を決める際、ナインティナイン・石塚英彦らとともにこのギャグを演じていた。

■最大の人数でこのギャグを行なった例としては、2006年の「24時間テレビ」(日本テレビ)の深夜枠で熱湯コマーシャルを行なった時である。熱湯にダチョウの3人が入る流れになったのだが、上島以外のスタジオにいる芸能人全員ならびにカメラマンやADなどのスタッフ全員(ざっと60人近く)が「いやいやオレがやるよ」と手を挙げ、最後に1人上島が「いや、ここはオレにまかせろ」と言って、スタジオ内の全員から「どうぞどうぞ」と促された。

■その演者を選ばないギャグの汎用性の高さからか、近年では島田紳助も「クイズ!ヘキサゴンII」(フジテレビ)でこのギャグを出演者達に振ったのが確認されている。(2007年)

■「訴えてやる!」

■上島がキレて床に帽子を叩き付けたあと、指を指しながら吐き出すせりふ。バリエーションに、「告訴するぞ!」がある。このギャグも「聞いてないよォ」と同様に一世風靡したギャグだが、近年披露されることはない。キレてから帽子を取り出し、一度被ってから行うパターンや、なぜかこのギャグを長く引っ張って出し惜しみするというパターンもあり。

■「(肥後と寺門)テレビテレビ!カメラ回ってる!!「(三人)すいません、取り乱しました」

■「訴えてやる!」とのコンボで使う。これでその場をまるく収める。

■「クルリンパ」

■クルリンパと言いながら、叩き付けた帽子を手際よく頭にのせる。「訴えてやる!」等とのあわせ技。ただし本人もいつ使っていいのか分からないことを後輩に漏らしている。(発展技として「パラリンク」がある。ただし「クルリンパ」を正確に逆さに読むと「パンリルク」)

■「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」

■熱湯風呂に入るときの決まり文句で、「押すなよ」は準備中、「絶対に押すなよ」は準備完了(押してくれ)の合図である。

■初出は上島が熱湯兄弟の長男も務めた「スーパージョッキー」(日本テレビ)の名物企画・熱湯コマーシャル。

■「ヤー!!」(登場時のギャグでその掛け声と同時に、両手を斜め前に出すが一方の手を短くしズラす)

■「ムッシュムラムラ」(目の前に水着美女がいたとき拝むように放つ。元は関敬六のギャグ)

■「つかみはOK!」(あまりウケないギャグをやった後に行う。初の冠番組のタイトルにもなる)

■「みんな仲良く脇(和気)・アイ!アイ!」

■「金貸してくれ!」

■(「バカじゃないの?」などと言われた後、怒ったような感じで)「何?バカ?」 (急にバカっぽく)「はは〜ん、バカだなぁ!」

■「ごめ〜んなチャイチャイチャイニーズ」

■「ストッピング!」

■「この○○(料理名)は甘からず、辛からず、かといって美味からず」「まずいんじゃね〜かよっ!」(以前自動車雑誌「J's Tipo」で別人による同じネタが掲載された。ただそのときのオチは「もう食うな!!」だった。)

■「ヨゴレでごめーんねっ」

■「カットしないでね」

■「そんなお前にチェックメーイト!」

■このギャグもいつ使うべきなのか分からず、いまだ手探りである。

■「上島竜兵。代表作これと言ってなし」

■「ナイスネイチャー!」

■ネイチャージモンが相手を褒めるときに使う褒め言葉。対語は「バッドネイチャー」

■「フェー!フェー!フェー! 」(上島がやるフェーフェーおじさん)

(出典:Wikipedia)

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田村裕(麒麟)

田村裕(たむら ひろし、1979年9月3日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。麒麟のツッコミ担当。大阪NSC20期生。立ち位置は向かって左。相方は川島明。


【概要】
大阪府吹田市出身。大阪府立吹田高等学校卒。身長180cm。血液型O型。
愛称は「タム」、「タムちゃん」(笑い飯の哲夫が呼んでいる)、「タムさん」(主に後輩芸人が呼んでいる)。満面の笑みが特徴。その為番組などのイラストやグッズのイラストの田村は大抵笑っている。

NSC願書の自己PRでは「人は笑っている時が一番幸せだと思います。だから少しでも長く、多くの人が笑えるようにしたいのです」と書いている。


【性格】
■正義感がかなり強い。自分より他人を大切にする。昔、番組でバスジャックのドッキリにひっかけられた時、人質(仕掛け人の芸人仲間たち)が犯人に指名されながら一人ずつ降りることを許され助けられていく中で、最後の何人かになった時、誰が最後まで残るかを聞かれてすぐに手を挙げ、一緒に乗っていた後輩を助けようとした。(ちなみにその時一緒にひっかけられていたダイアンの津田は、犯人の怒りに触れないよう、極力静かにしていた)。

■純情で騙されやすい。ドッキリに毎回引っかかる。(チュートリアル徳井曰く「アホピュア」)
   子供に好かれる。(相方の川島曰く「頭の構造が一緒やから」)

■本業の漫才や舞台「なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!」でセリフをよくトチる(噛む)。滑舌が悪い。

■子供によくナメられる。その為、マクドナルドで一人でハンバーガーを食べていると、親にハンバーガーを買ってもらえずにいた子供に「なんでお前がハンバーガー食っとんねん!!」と食べていたハンバーガーを床に叩きつけられた。また、それを見た親が「すみません!」と落ちていたハンバーガーをそのまま拾って田村に渡したらしい。(ヨシモト∞参照)


【エピソード】
《極貧時代》
■学生時代は貧乏だった(幼少時代は、そこそこ裕福だったという)。幼少期に母を病気で亡くし、中学生の頃に家が差し押さえられてしまい父親が蒸発、家族が『解散』した。しばらく兄、姉、田村それぞれが一人で生活する日々が続いた。この時期に田村は公園に住んでいたことがある(それゆえに当時の家の間取りを1Pと表現した)。その後友人の好意でアパート住まいはできるようになったが、
高校卒業まで生活費に苦労する日々が続いた。

■高校時代は昼の弁当を持って来れなかったため、教室で同級生が昼食を摂っている姿を見るのが辛く、昼食抜きで昼休みは一人で体育館でバスケットボールの練習に励み、レギュラーの座を獲得した。

■父を除いた家族3人で、近所のおばちゃんが借りてくれたアパートに住んでいた頃は家具が無く、粗大ゴミ置き場に家具を拾いに行った。その様子を当時の好きな子に見られてしまい「なにやってたの?」という質問に、「家具がないから家具を拾ってた」といったら、口をきいてくれなくなった。

■蒸発した父親は、現在も消息不明である。(田村曰く、「テレビを見られる状況に無い可能性がある」という)クイズ!ヘキサゴンIIに出演した際、「お父さんのことは恨んでないから、どうか僕の前に出てきてください」と再会を訴えていた。

■衝撃の解散の後、たった一度だけ父親に会った事がある。友達の家にいた時、散髪しに行く途中で再会した。だが父親にどこに行くかを尋ねられ、田村が答えた後、再び『解散』した。それからは、消息が掴めていないらしい。

■2007年3月15日に放映された「いきなり!黄金伝説」で、松居一代からの問いに、公園生活は14才の1ヶ月間であったことを打ち明ける。その時期の辛さを思い出してか号泣する場面も見られた。余談だが、他の番組では比較的コミカルに語られていた田村の過去が、この番組ではかなり重い物として扱われた。

■昔、川島が弁当のから揚げを公園の砂の上に落とした際、捨てようとした川島の手を止めて、「落ちて一分はありやろ」と言った(通常の「三秒ルール」が田村家では「一分ルール」)。

■ふりかけのせいで親友と絶交したことがある(「明日持って来たる」と言ったのに、友達が忘れてきたため)。

■公園に住んでて食べ物が全く無い時、あまりの空腹に周辺に落ちていたダンボールを水につけて食べた事がある。田村曰く「まずい!!(匂いもダメ)」らしい。

■公園時代は、雨で体を洗っていた。彼曰く、夕立が一番嬉しかったらしい。逆に腹が立つのは、『やや降り(小雨)』。その際に、天に向かって「降るなら降る!降らへんなら降らへん!」と怒った事がある。


《芸人時代》
■一発ギャグなどでよく滑るが、天然ボケからなるアドリブは得意である。

■タムちゃんダンスと言う変わった踊りのネタがある。

■漫才中、相方川島のオチで笑ってしまい、お辞儀もせずに舞台袖に帰ったことがある。

■(相方のおばあちゃん曰く)氷川きよしよりかっこいいらしい。が、おばあちゃんに「歌ってみろ」と言われて歌ったら、即「あかん」と言われた。


《極貧時代の影響》
■川島と麒麟東京進出を考え、東京に居を移す計画をするもお金が無く、タクシーに乗るのにはまってしまったためと後輩の面倒見がよく、おごりすぎたため断念したことを新年早々生番組である第40回爆笑ヒットパレード2007とメントレGで話している。また、年明け前にも吉本お笑いオーケストラUなどで話していた。
お金があることが不安になり、使ってしまうことも告白している。

■M-1グランプリ2006の決勝進出者の記者会見で、賞金の使い道を聞かれて「中学のときに家がなくなって一時期公園に住んでいたので、優勝したら相方と2人でその公園を市から買い取りたいです!」と語った。

■貧乏キャラのため劇団乙女少年団などのコント劇団のキャラでは服が茶色の布に紐でしばったような服やダンボールで作られた服を着せられることが多い。

■「アメトーーク!」では「実家ビンボウ芸人」というカテゴリーで出演。他にメッセンジャー黒田、小沢一敬、中川家、熊谷岳大も出演していたが、エピソードの凄まじさから雨上がり決死隊からは黒田とともに「あの2人だけ別格やわ」と言われた。画面では田村と黒田のところにスポットが当たって「特A」というテロップもつけられていた。

■その壮絶な極貧エピソードの数々はいわゆる「鉄板」であり、人志松本のすべらない話でも披露され、田村は初出演ながら見事その回のMVP(ゴールド印)を獲得した。

■食事をまともにしていなかった為か、かなりの小食・味覚が若干おかしい。過去に川島にいたずらで焦げたキャベツを『トリュフ』だといわれ、とても美味しそうに食べていた。


【その他】
■兄はフロントストーリーの清水健次とコンビを組んでいたことがある。コンビ名は「マジェスティ」。

■ファンからの女装の評判がよく、女っぽいしぐさをよくする(自分のことを時々あたしという、など)。

■タム子か裕子と呼んだりスタイルがいいから女の子の役をしてくれと言われたりするなどとのって女性の役をしてくれる。

■学生のころ家庭の事情により自殺を考えたことがあり、教師に相談したら「田村君の笑顔でクラスが和むんだよ」と言われ思いとどまる。これがきっかけで芸人を目指すことを決意。

■タクシーが大好きでしょっちゅう乗っている(昔は貧乏だったため、乗れなかったものが今は乗れることが嬉しいらしい)。本人曰くジェットコースターよりおもしろいとのこと。

■しかもタクシー内で川島に話しかけるとき「タクシー!…あ、ちゃうわ。あのさぁ!」というように「タクシー」と「あのさぁ」を言い間違えたらしい。

■ヘビースモーカーであり、銘柄はマルボロライトメンソール。

■最近の日常生活でもどういうわけか運が悪い。「靴屋でガムを踏む」、「鳥の糞が両肩に同時に落ちた」、「牛丼の持ち帰りで牛肉が入ってなかった」、「買ったCDにCDが入ってなかった」など枚挙に暇がなくトークでもたまに話している。

■体内時計が正確で麒麟・千鳥の二笑流TVではたびたび正確な体内時計を見せた。

■10歳の時サッカー部に入るも、なんとなく退部。以降はバスケット一筋。中学、高校ではレギュラーだった。

■得意のバスケではダンクができる。

■ご飯をずっと噛み続けると甘味が増した後、徐々になくなっていくが、極限まで噛み続けると、ほんの一瞬だけ味が復活する事を発見する。田村家ではそれを「味の向こう側」と呼んでいる。

■現在借りている自宅マンションの前の住人は、フットボールアワーの岩尾望。ゲ−ム機を置いていってくれたらしい。

■ココリコミラクルタイプで菅野美穂に「田村君は良い子だ!!いいこいいこ!!田村君はほんとに良い子だ!!」とべた褒めされたことがある。

■只今極貧時代をネタに自伝を執筆中。

■水が怖い。泳げはするがいきなり水を掛けられると、泣いてしまうらしい。

■過去、彼の兄によって布団に包まれたせいで暗い所が苦手。

(出典:Wikipedia)

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タカ (タカアンドトシ)

タカ(本名:鈴木崇大 - すずきたかひろ、1976年4月3日 - )はお笑い芸人でタカアンドトシのボケ担当でライオン柄の上着を着ている方。相方はトシ。血液型はB型。


【人物】
■北海道札幌市出身。1995年北海高等学校卒業。

■1994年「タカアンドトシ」結成。

■歌がうまく、「お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル」では、レミオロメンの「粉雪」を熱唱し、観客や出演者を感動させた。ただし、裏声を出すのが苦手で平井堅の「瞳をとじて」も地声で歌う傾向がある。

■Mr.Childrenの大ファンであり、タカアンドトシのケチャケチャラジオのエンディングでタカがカラオケでMr.Childrenの曲を熱唱する。また、爆笑問題カーボーイでMr.Childrenがゲストに来た時は、はがきを送って見事2通読まれた。

■女優の牧瀬里穂のファンである。

■地理が大の苦手である(笑いの金メダルで北海道以外どこが何県かがわからないと言っていた)。また、メールの早打ちが得意。

■ものまねにコンボ(コーンフレークのCMに出てきたゴリラのキャラクター)やアシュラマンの怒り面(キン肉マン)、ミスターサタン(ドラゴンボール)などがある。 (ただしそれらのキャラクターは全て郷里大輔が声優を務めているため違いが分かり難く、トシに「全部一緒じゃねぇか!」とツッコまれることも。)また、アシュラマンのセリフ「キン肉マン、お前の負けだ〜!」と言って、シ〜ンとなった時は、トシに「お前の負けじゃねえか!」とツッコまれる。

■髪型は主に9:1分け。色はよく変わり、黒・赤・茶色などになる。また、 頭の片方を金髪にして、反対を黒髪にしていた時期もあった。

■上京してきた当時、ルミネの楽屋に先輩芸人がいると、楽屋の外にあるポスターを眺めていたというエピソードがある。

■酒癖が悪く酔うとかなりネガティブになり、周りの話が聞けなくなる。ちなみに好きな酒はジャスミンハイ、赤ワイン、芋焼酎。

■体型がよく変わる。体型で笑いをとりたくないという理由で絶食ダイエットをし、18kg痩せて55kgにまでなったが、上京してから大食漢によりまた太ってしまった。4年で25キロ太ったらしい。

■ファッションセンスが独特。以前はカンザス大学のマスコットのイラストがついた赤いトレーナー(高校時代に古着屋で購入)を着用することが多かったが、2006年の6月に行った漫才のみの単独ツアー「欧米ツアー〜つゆなのに、やる〜」を機に、 以前自分のブログで紹介した幼稚園の屋外用の玩具からヒントを得、自身のデザインしたライオンが描かれた赤いポロシャツを着るようになった。しかし、それより以前は普通の格好で舞台に出ていたため、一種のキャラクター作り的な要素を含んでわざと独特なファッションをしているのかもしれない。このライオンのポロシャツは色違いで10種類ある。また、レギュラー番組の「タカアンドトシのどぉーだ!」では、ライオンに似た白クマのポロシャツを出演者全員が着用している。

■2004年11月号のマンスリーよしもとで20代の吉本芸人でNO.1のオシャレという称号を得たが(同率の1位は麒麟・田村裕)、後に笑いの金メダルで、『ファッションセンスのない笑金メンバー』ワースト5に選ばれてしまった(他の四人は鉄拳、レギュラー・松本康太、たむらけんじ、三宅裕司)。

■「お笑い芸人親子で漫才王座決定戦スペシャル」にて母親に対する想いを打ち明け、視聴者から「感動した」などの好評を受けた。

■「相方に直して欲しいところ」としてトシは「不潔なところ」と挙げた。夏などは最高一週間風呂に入らないことなどがあるらしく、ツッコミを入れるたびに体臭を我慢しているらしい。

■いまだにブリーフを母親から送ってもらっている。ちなみにパンダの刺繍などがついている。ちなみにタカはパンダが好きである。

■大のおばあちゃん子で、祖母は死の前にタカのことを思い、生命保険に入り受け取り人をタカにしてたという。

■1ヶ月近くかけてほしのあきのマンションにやっと2人きりになった所に愛人役の島田紳助が踏み込んで来るというドッキリ企画をされた。ほしのからクローゼットに隠れるように指示され、隠れた後に怒鳴り散らす紳助に扉を空けられ、カメラが回っているにも関わらず頭を抱えてガクガク震えていた。

■いつもつけているネックレスは彼女からのプレゼントらしい。(「ヨシモト∞」で宝物はおばあちゃんの形見の指輪とネックレスと話していたため、祖母の形見という説もある。また、ダウンタウンDX内のコーナー「スターの私服」にて、ネックレスは自分が彼女にあげたものを、現在彼女が使っていないので、借りて付けていると説明していた。)

■将来は世間全体にとんねるずの石橋貴明にあやかってタカさんと呼ばれたいらしい。

■かなりの人見知りで寂しがり屋で、相方のトシが他の芸人と楽しそうに話しているところを見ると、嫉妬してしまうらしい。また、エンタの神様でのネタ後トークでは、「いつもより相方と離れていて寂しかった。」と話している。

■タカはトシの体調が限界に来たとトシより先に気付き、スタッフと「トシさん会議」なるものを開いた。それは、タカ曰くトシはタカよりリセットするのに時間がかかる為。その結果、一日の休み(営業を休んでつくった日)を貰ってトシを休ませた。

■パンツにアップリケがしてある。母親が作るらしい。

■子供の頃から肥満体型だったが、お笑いを志すにあたり「オーディションに合格するにはデブではだめだ」と思い(モテたいからという下心もあった)高校2年の頃よりダイエットを決意。一時期は1ヶ月で15キロ位痩せた事もあったが、その際、『急に楽屋中を綺麗に掃除する』、『何十枚ものTシャツを色順にグラデーションになる様にたたみ「出来が気に食わない」と言ってそのたたんだTシャツをグチャグチャにしてはまたたたみ直す』等の行為を繰り返すダイエットハイ状態となり、拒食症の一歩手前までいった。その甲斐があって東京に上京する頃にはトシよりも痩せていたが、上京後30キロ以上太り、2007年現在歯止め無く太り続けているらしい。

■身長は公称175cmだが176cmのトシと並んでいる所をみるかぎり実際はそれよりも低いとされる

■いきなり黄金伝説の「せんべいを一週間で千枚食べきるコンビ」では、千枚に達っしたとき号泣したことがある。

■前述で何度か出ているように感情の起伏が激しいようで、爆笑オンエアバトルの第9回チャンピオン大会では、優勝がNON STYLEに決まった時、あくまで冷静なトシに対してタカはその表情に悔しさを隠せ切れず、出演者達がアドリブを入れてポーズを楽しむ「あなたたちです」の時までも完全に顔を伏せていた。(尤も、その時タカアンドトシには3連覇と言う快挙がかかっていた。)

■梅干しが嫌い。

■2007年8月18日8月19日放送予定日本テレビの24時間テレビではタカアンドトシとして、番組パーソナリティーを務める。

■小中高サッカー部に所属しており、ポジションはゴールキーパーであった。中学時代に北海道大会で優勝した経験がある。

(出典:Wikipedia)

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タカアンドトシ

タカアンドトシは日本のお笑いコンビ。通称「タカトシ」。

1994年5月に結成し、吉本興業札幌事務所(札幌吉本)からデビュー。北海道で活動した後、2001年に上京し、吉本興業東京本社の所属となる。正統派しゃべくり漫才を繰り広げる。
札幌時代のコンビ名の表記は「タカ&トシ」で、2001年の東京進出の際に「&」を「アンド」に変更した。


【メンバー】
■タカ(本名:鈴木 崇大 - すずき たかひろ。1976年4月3日 - ) ボケ担当。北海道札幌市出身。

■トシ(本名:三浦 敏和 - みうら としかず、1976年7月17日 - ) ツッコミ担当。北海道旭川市出身。


【経歴】
■中学2年生の時にコンビ結成。高校3年生の時に吉本興業札幌事務所主催のオーディションを受け、プロとして活動を始める(次長課長などのNSC13期がほぼ同期にあたる)。

■当初は「北海道のお笑いを盛り上げよう!」を目標に、後輩のBコース、アップダウンらが次々と東京に進出する中、ローカルに根ざした堅実なお笑いで、今の札幌吉本の礎を築いた。

■「欧米か!」のフレーズで有名だが、「欧米か!」の由来は漫才のツッコミのセリフからであり、「高校の旧友と再会」という漫才の中でトシが「欧米か!」と頻繁にツッコむパターンがフィーチャーされたことから。

■平成18年4月〜9月に放送された東海テレビの「音楽魂!」において、初のMCを務めた。

■東京進出後の初冠番組は、2006年10月から放送開始のラジオ番組「火曜JUNK2 タカアンドトシのケチャケチャラジオ 」(TBSラジオより全国ネット放送)。

■サッカーアース(日本テレビ)でキー局での初メインMC。2007年4月から放送の「 タカアンドトシの音楽魂か!」(東海テレビ放送)、「タカアンドトシのどぉーだ!」(北海道文化放送)はテレビにおける初の冠番組となる。

■2007年8月18日〜19日放送予定の日本テレビ24時間テレビでは番組パーソナリティを務める。


【受賞歴】
■テレビ静岡主催 全国吉本若手漫才 優勝(1997年)

■笑いの金メダル(ネタバトル時)第10回金メダリスト(2004年6月)

■M-1グランプリ2004 決勝進出(4位)(2004年12月)

■爆笑オンエアバトル第7回・第8回チャンピオン大会優勝(2005年3月、2006年3月)


【芸風】
■当初は普通の掛け合い漫才だったが、「面白いけど、何かが足りない。」と言われ続けたため、タカのボケに対し、トシが連続で「○○か!」(欧米か!・女子か!・子供か!など)と突っ込みながらタカの頭を叩くパターンを生み出した。ちなみにタカの「チェリーパイ」の発言は「欧米か!」のフリ。

■漫才の中盤から、タカがトシに対してネアンデルタールや正岡子規、ガンジー、タピオカ、クリリンなどと茶化したり、ゴロの似たパターンやツッコミボケを披露する(「欧米」→「南米」、「女子」→「上司」など)

■また、中盤から終盤まで韻を踏んだツッコミボケをする(「子供か!」のツッコミに対して「衣か!」や「児玉か!」「コモドか!」など)。オチでは2人で同時にツッコミを入れて終わる場合もある。

■この形式でのネタを作る際はツッコミのフレーズ(「○○か!」の○○の部分)を先に作ってから、それに合ったボケを付けるという形をとっている。

■最近では「○○か!」のネタを量産しているため「芸が荒くなった」、「普通の掛け合い漫才の方が好き」などの批判や意見もある。

■この「欧米か!」は、明石家さんま、とんねるず、ナインティナインの岡村隆史、ウッチャンナンチャン、落語界では、三遊亭楽太郎、お笑い以外ではSMAPの中居正広や香取慎吾、丸山和也、吉幾三など色々な芸能人に使われている。


【逸話】
■遠足のネタのオチは2種類ある。1つは「迷子になった後藤君が陰からひょこっと水死体で発見され、先生が『OH MY 後藤』と言う」。もう1つは「迷子になった後藤君が陰からひょこっと出てきて『恥ずかしながら帰って参りました』と言って敬礼する」。前者は爆笑オンエアバトルで9回目の挑戦の時(結果:453KBで2位通過)などで披露。後者は爆笑オンエアバトルで16回目の挑戦の時(結果:509KBで1位通過)など。今では殆ど後者を使用。

■テレビで披露する漫才の他にも単独ライブ等ではコントも披露する(ちなみにエンタの神様でのコントでは漫才と同じように「○○か!」ツッコミをやっているが、単独ライブ等で行うコントでは「○○か!」はほとんど出てこない)。他にも2006年6月の漫才ツアーでは「ナルシスト漫才」「噛んだら終わり漫才」なども披露(このツアーで披露した「英語漫才」は2006年10月1日放送の笑いの金メダル2時間スペシャル内のコーナー「ボケモン」で披露)。

■1998年3月、まだ北海道でしか知名度が無かった当時、HBCラジオの24時間に及ぶ長時間特番のゲストパーソナリティとして共演した伊集院光に、打ち上げで2人が「どうやったら毎週面白いトークができるのか」と質問した。しかし答えに窮した伊集院は「非日常を日常にしろ。例えば一日ステッキを振り回しながら生活しろ」と適当に答えたところ2人は真剣に納得してしまって大変困ったと、「伊集院光 深夜の馬鹿力」で伊集院は告白している。

■2006年10月19日放送のうたばんでとんねるずの石橋貴明に「パプリカか!」、「赤ピーマンか!」と茶化された(パプリカは2人とも、赤ピーマンはトシのみ)。

■「○○か!」だけでなく、「そーなんだ」という新ネタもある。

■タカがよく着ている服のライオンの絵柄は、タカ本人がデザインしたもの。

■2006年10月に発売したDVDの「タカアンドトシ新作単独ライブ タカトシ寄席 欧米ツアー2006」が6万枚以上のセールスを記録。番組をまとめたもの(ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!など)以外では2005年2月に発売したアンガールズの「アンガールズ 単独LIVE 〜88〜」4万超え以来の快挙。

■最近はタカのつく嘘もネタになってきている(島田紳助にロシア人っぽいと言われ、お父さんがロシア人、と返すなど。直後にトシが「欧米か!」と突っ込む)。その嘘は特徴があり、実際にあったかのような嘘である。

■「お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル」でタカは歌がうまいがトシは下手だということが分かった。

■同番組の2回目の出場時にはトシがハモリを失敗して、3回目の出場の時には「トシに歌わせたから負けた」というようなことをMCたちに言われた。

■「いきなり!黄金伝説。」(テレビ朝日系)でのカラオケで100点を目指すというコーナーにタカアンドトシが挑戦したところ、周囲の予想に反して最終的に100点をとったのはタカではなく森山直太朗の「さくら」を歌ったトシで、同曲を14回も歌ってやっとのことだった。

■2007年1月5日放送の志村けんのバカ殿様でゲストとして登場し、志村けんからちょんまげのカチューシャを渡された後のコントでトシは1回の「欧米か」でタカのちょんまげカチューシャを壊してしまった。

■先輩として次長課長河本を慕っているが、実はほぼ同期である。(年齢は下)

■札幌吉本出身であるためか、福岡吉本出身の博多華丸・大吉と何かにつけ比較される。

■両者共、吉本興業の地方事務所の1期生であり、看板タレントであった。タカアンドトシは吉本興業札幌事務所開設時のオーディションを経て、1994年に1期生としてデビューし、やがて札幌吉本を担う主力芸人となった。華丸・大吉も、吉本興業福岡事務所開設時のオーディションにより、1990年に1期生としてデビューし、瞬く間に福岡吉本を代表する売れっ子芸人となった。因みに両者共、吉本入りする際に1回目のオーディションで落選している。

■両者共、同期や後輩が先に東京進出を果たす中、近年満を期して上京し、2006年前後から全国区でブレークした。タカアンドトシは、後輩のBコース、アップダウンらが次々と東京に進出する中、2001年にようやく活躍の場を東京に移し、2006年前後から「欧米か!」のツッコミで、全国区でブレークした。華丸・大吉も東京進出では同期の竹山隆範(カンニング)や後輩のヒロシに先を越されたが、2005年にようやく上京し、とりわけ華丸が児玉清のモノマネを武器に、2005年にとんねるずのみなさんのおかげでした内のコーナー、博士と助手 〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜で優勝したことや、2006年の『R-1ぐらんぷり』で優勝したことにより、コンビ揃ってテレビに出る機会も爆発的に増え、一躍全国区の人気者となった。

■両者共、ツッコミ役に交際歴の長い彼女が存在する。タカアンドトシのトシには2007年2月現在で交際歴13年の彼女がおり、写真誌でも熱愛ぶりが報じられた。華丸・大吉の大吉も、交際歴11年になる彼女がいることを2007年1月のテレビ番組出演時に明らかにした。両者共、結婚間近とも言われている。

■2007年3月1日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」では、タカがタイでの海外ロケの集合時間に約2分遅れてしまったため出川哲朗が「ドッキリしましょうか」と提案。タカが前夜石橋貴明のドンペリを部屋に持って帰ってしまった事を根に持つという伏線もあり、石橋貴明がタカに激怒するドッキリを敢行。怒られたタカは一生懸命謝ったが聞いてもらえず、石橋が出川を殴ったりテーブルを蹴飛ばすなど怒りが収まらないまま時間が過ぎた(もちろん石橋の演技である)。しばらくしてから謝りに行った後、石橋がトシに突っ込まれネタばらしをし本人はようやくドッキリと知るが、緊張の糸が切れたタカは号泣してしまった。なおこのドッキリは突発的なものであったため、2人のマネージャーもドッキリと知らずに本気で謝っていた。

■2007年4月5日放送の「いきなり!黄金伝説。」で、一週間でせんべい1000枚を食べきるという伝説にチャレンジし見事達成した。最後の1枚は芸人生活を振り返りながら食べていたが、それまでの苦労や、その挑戦に対する辛さもあったためか、タカは食べながら号泣していた。

■同級生と言うこともありコンビ愛も深く、「Qさま!」の解散ドッキリでトシが「休業したい」と言った時も、タカは涙ながらに「俺はお前とじゃないと出来ないから」と言った。トシは同番組の最後で「(タカが自分とじゃないと漫才出来ないと言った事に)感動した」と言う発言をしている。

■同時期にブレイクし、M-1グランプリで共に優勝を狙った南海キャンディーズとは、よきライバルでもあり、公私に渡り仲が良い。


《爆笑オンエアバトル》
■2001年に爆笑オンエアバトルの札幌収録で初出場するまで、全国ネットの番組での仕事は殆ど無かった。後に、東京に上京するきっかけになった番組と話している。

■2001年の初出場時は4位、その後は4回連続5位と綱渡りの状態だったが、第6戦以降からキロバトルが上昇。第11戦以降は1位が定位置と言えるほどまでになり(第17戦のみ2位で、1位はキャン×キャン)、第13戦から現在まで6連続オーバー500の記録も保持している。さらに、番組最多連勝の18連勝の記録も打ち立てている。チャンピオン大会ではルート33に続く史上2組目の大会連覇を達成。これらの戦績により、番組内では「史上最強のチャンピオン」と紹介されていた。

■第9回チャンピオン大会では、「○○か!」を強調しない正統派漫才を披露したが、番組史上初の3連覇の偉業達成は成らず、後輩のNON STYLEにその座を譲り渡した。結果発表後は大きな拍手で新チャンピオンを祝福していたタカだが、チャンピオンベルトとトロフィーの授与が終わる頃にはうつむき涙を流していた。収録後の楽屋にてタカは「思い残すことは無いし、やるべき事はやりきった!」と力強く語り、トシも「オンエアバトルには非常にお世話になりました。今後も活きのいい若手を輩出してください。僕らも負けませんよ!」と番組への感謝を述べた。

(出典:Wikipedia)

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田村亮

田村 亮(たむら りょう、1972年1月8日 - )は、大阪府高槻市出身の日本人お笑いタレントである。ロンドンブーツ1号2号のメンバーで、ツッコミ担当。相方は田村淳。吉本興業所属。血液型はA型。大阪府立芥川高等学校卒業。身長172cm。


【概要】
■“田村3兄弟”の末っ子である俳優の田村亮(下の名前は、本名ではない)とは別人だが、家が近く、面識はある。俳優田村亮宛の小包が、誤ってロンブー田村亮宅に届いてしまい、ロンブー田村亮夫人と俳優田村亮はその際に会ったらしい。

■担当はツッコミだが、天然ボケでおっさん臭い傾向があるので、逆によく淳に突っ込まれる。

■『ロンブー龍』の企画で本人がプロデュースした野菜中心の和食の店『菜乃家わいんち』をオープンさせる。本人もたまにお店のお手伝いをしている。

■短い金髪がトレードマーク。ブレーク前は黒い長髪だったが、先輩である加藤浩次(元極楽とんぼ)の奨めで金髪にした。その後2007年2月1日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」の卓球対決で敗れ、その罰ゲームでパンチパーマ(金髪はそのまま)にさせられた。ちなみにパンチパーマ姿で同年2月7日放送のザ・ベストハウス123の収録を行った。

■吉本興業が発行する月刊誌「マンスリーよしもと」の「吉本男前ランキング」で、2002年まで3年連続でNo.1に選ばれ、2003年に殿堂入りした。因みに、徳井義実(チュートリアル)も殿堂入りを果たしている。2007年現在、井上聡(次長課長)が2年連続No.1を獲得しており殿堂入りにリーチをかけている。「吉本ブサイクランキング」で同じく3年連続1位・殿堂入りしたのはほんこん(130R)と、岩尾望(フットボールアワー)。2007年現在、山ちゃん(南海キャンディーズ)が2年連続No.1を獲得しており殿堂入りにリーチをかけている。にもかかわらず相方の淳とは対照的に独身時代はなぜかモテなかった。同じくモテなかったココリコの田中直樹とよくつるんでいたらしい。

■リズム感、音感がまるでない。ロンドンブーツ1号2号のレコーディングは、ギターとリードボーカルであった淳がさっさと録音し終えたのに対し、彼のパートはコーラスだけであったにも拘らずかなり難航した。

■2003年に、できちゃった結婚をした。これまでに1男をもうけている。『ロンドンハーツ』で独占結婚発表会見が行われた(番組企画あり、実際の記者会見ではない)。

■2002年1月30日に田村亮デビューシングル『存在』が発売。作詞・作曲は田村淳。

■2000年7月12日未明にバイクを運転中に下り坂だと思って進入した道が実は階段で、それによって両腕を骨折する事故を起こし、出演予定だったドラマのクランクインを遅らせる事となる。因みにその時の看病は、当時売れない芸人として田村亮宅に同居していた川田広樹(ガレッジセール)が行っていた。その際、亮は両腕骨折をして手が使えなかった為、トイレに行く際、川田はお尻を拭いていた。そして小の担当は品川祐(品川庄司)。お尻を拭くと5000円、小の時は1000円貰えたらしい。

■高校3年の頃に、よみうりテレビ製作『鶴瓶上岡パペポTV』の収録を欠かさず見に行っていたという。

■仕切りの出来ないツッコミとしても有名で、亮自身はプレーヤーに回ることが多い。

■ココリコ田中直樹、藤井隆と仲が良く、三人で海外旅行に行ったこともある。松本人志(ダウンタウン)曰く「やさし〜い、デリケートな三人」

■黒沢宗子(森三中)とはよく飲みに行くらしい。

■今まで出会った芸能人で最もオーラを感じた相手はビートたけしと答えている。それまでも「芸能人は皆例外なくオーラを持ってる」と思っていたが、たけしは格が違ってたとの事。

■プロレス・格闘技ファンとして知られるが、自身も柔術の使い手である。

■旧車マニアでも有名で、愛車は日産ブルーバード(510型の2ドア)。

■バラエティー番組のトークでは、全然喋っていない。

■海洋生物が好きで、番組で企画されたコーナーでグラビアアイドルの袋閉じには見向きもしなかったが、海洋生物の袋閉じには我を忘れて開き中を凝視したほど。

■相方の淳が鈍足(2006年7月4日放送の『ロンドンハーツ』より)であることもあって、力仕事を任されることが度々ある。

■父親(すでに他界している模様)が大工だった為、学生時代は大工を継ごうと思っていた。修業もしていた様で、『いただきマッスル!』内でその能力が度々披露されている。

■酒癖があまり良くない様で、酔いだすと相方の淳のことを褒めだす。

■東京の中心が上野だと信じて、一年以上上野に住んでいた。

■淳が出演していた大河ドラマ『功名が辻』にゲスト扱いで出演した。相方との絡みは無かったが、同じドラマにコンビ揃って出演したことになる。

■幼稚園のころ母親によくちょっかいをかけられ嫌だったらしい。淳とは反対に泣かない子で泥団子をいっつも作って遊んでいたと以前言っていた。小学校の時は人を笑わせるのが大好きな元気な子。運動神経抜群でドッヂボールでいつも遊んでいたのこと。このころからお笑いに興味を持ち始める。

■金髪のきっかけ

金髪になったのは、96年頃、その前は肩に届くまでのロン毛だった。しかしある日ガバメントのイベントに遅刻してしまい、罰として極楽とんぼの加藤に舞台の上でバリカンで坊主にされた。坊主頭の自分をテレビで見た亮は「これじゃ高校球児と変わらない」と、思い自分でブリーチして金髪にしたらしい。当時は金髪などいなかった為、「似合わない」と言われた。ロン毛時代にも「ムサい」と言われたこともあった。余談だが、あの金髪を染めるのに淳も手伝っていたらしい。金色のブリーチはかなり肌に刺激が強いみたいで、おでこのあたりなどかなりヒリヒリして痛かったらしい。

■淳と亮の出会い(亮的)

1年間やったサラリーマンを辞めアルバイトで食いつないでいた。そしてお笑いをしようと上野に行く(上野が一番進んでいると思っていた)。近くにお笑いをやっている人がいると聞き、会いに行ったその人がタバタさんだった。タバタさんに「同じようにお笑いを目指している奴がいる」と言われ淳と知り合う。その後、渋谷、原宿などに行った時、亮は自分の勘違い、人の多さに驚いたそうだちなみに初めて会った時の淳の服装はシャ乱Qのはたけさんような服装だったらしい…。

■ちょっと凄くて、面白い話 -亮と詐欺の戦い-
ここ最近頻発している悪質な詐欺電話が亮の携帯にもかかってきた時の対応。

悪質業者「あなたエロサイト見たのにお金振込んでませんよね」

亮『見てないって』

悪質業者「見ましたよね。訴えますよ。払って下さい。」

亮『明らかに悪質業者の手口じゃん。こんだけ話題になっているんだから、もう少し工夫しないと』

悪質業者「ふざけるんじゃねぇよ!訴えるぞ。」

亮『どうぞどうぞ、ていうかもう少しましな嘘考えてから電話してきてちょうだい。お金に困ってる訳じゃないからおもしろかったら振込むのを考えてもいいよ。』

悪質業者「…。」

(出典:Wikipedia)

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田村淳

田村 淳(たむら あつし、1973年12月4日 - )は日本人の男性お笑いタレント。ロンドンブーツ1号2号のメンバーで、ボケ担当。相方は田村亮。吉本興業に所属。 同じ誕生日に3歳上の中川家の剛がいる。これにより、剛が『ロンドンハーツ』で単独出演をする様になった。


【プロフィール】
・本名:田村淳(芸名と同じ)
・生年月日:1973年(昭和48年)12月4日
・星座:いて座
・血液型:O型
・出身地:山口県下関市彦島
・最終学歴:山口県立下関中央工業高等学校
・趣味:城郭、刀剣収集、コンピューター(マッキントッシュ)、ゴルフ、クレイアニメ制作
・身長・体重:164cm・58kg
・B・W・H:84cm・72cm・90cm
・靴サイズ:26cm
・頭まわり:56cm


【人物】
■幼少から人前で目立つ事が好きで、幼稚園の学芸会で駄々をこねて主役を譲って貰ったり、中学校のバスケ部で入場時のプラカード持ちをキャプテンから代わったり等していた。

■中学・高校時代は当時の超人気ラジオ番組KBC『PAO〜N ぼくらラジオ異星人』の常連リスナーだった。また、裏番組であったRKBラジオ『HiHiHi』のリスナーでもあった。

■高校では2回程停学になった事が有る。1度目は喫煙、2度目は製図の試験で机の引き出しの中にあった先輩の解答用紙を流用した事によるカンニングと窃盗。また、3年生のときに本当は就職先が内定していたのだが、その会社が突然倒産したため、吉本入りしたそうだ。

■高校時代、クラスメイトと「馬関(うまのせき)ふぐの助・ふぐ太郎」と言う漫才コンビを組んでいた。このコンビで上京し、東京進出を果たそうとしたが、上京後のネタ合わせの途中で相方が失踪する。約1年後、10歳年上の人とコンビを組むが、年齢差を理由に淳の方からコンビ解消を申し出る。そこで紹介されたのが、現在の相方・田村亮である。相方の失踪当時は仕事も無く、東京に頼る人もいない状況で、毎日家に閉じ篭って座り続け様々な考え事をしていたと云う。これが初の挫折であったが、この間に様々な事を考え続けていた事が後のブレイクに繋がったとする向きも有る。

■2000年頃に『暴ロンブー』と言う番組の企画で霊能力者に「髪を赤くするべき」とのお告げで髪を赤く染める。丁度ブレイク時期と重なり、コンビイメージの事もあって2002年頃まで赤い頭髪だった。ちなみに現在は茶髪。

■ロンブーのレギュラー番組では、仕掛人として数々のタレントにドッキリや罠を仕掛ける立場で、特に出川哲朗が最大の被害者として有名。しかし、逆に山本圭一(元極楽とんぼ)は天敵であり、過去に『27時間テレビ』のコーナーで大暴露された経緯がある。また、自分がドッキリや罠を仕掛けられるのは極度に苦手である。

■悪戯好きはお笑い芸人の間では有名。ペナルティに電車で別れ際に水鉄砲を放射し、他の乗客も被害に遭い残された彼らは相当小さくなった。また、ヒデのアパートに毎晩こっそり現れてはガス栓を止めて故障を装わせたり、ワッキーが引越しの手伝いでガンダムの人形を引き取る約束をしたが、後日ダンボールに大量の石と一緒に悲しい顔したガンダムが埋められて送り付けられ、配送代金は着払いで2万相当だったとか。

■担当はボケだが、相方の亮が天然ボケである為、ツッコむ事が多い。また、亮が仕切るとグダグダになる為、仕切り役に回る事が多い。

■自分以外に相方の亮がイジられていると面白くない、と発言している(自分のほうが面白くしてやれるから、らしい)。

■名前を「ジュン」と良く間違われる。

■熱心な城郭マニアで、写真を見ただけで何処の城か当てる事も出来る。また、戦国マニアであり、好きな武将は伊達政宗、好きな戦国女性は濃姫。日本刀の収集も趣味で、プライベートで一人の時は真剣の手入れをしながら真剣に精神集中をすると云う。念願叶って2006年のNHK大河ドラマ『功名が辻』に中村一氏役で出演した。

■『アイシールド21』の蛭魔妖一(ヒル魔)役で声優としてレギュラー出演をしたが、演技の稚拙さや「声がキャラに合ってない」と言う声も多く、評価は芳しくない。しかし、最近では違和感が無い、上手くなった等の声もある。最初のときと比べかなり上達してきている。声優としてのデビュー作は『それいけ!アンパンマン』のもずくん役。

■『新宿暴走救急隊』で共演した山下真司と親交がある。因みに、山下真司は田村淳と同じ山口県下関市彦島出身である。

■淳のプライベートヴィジュアル系ロックバンドjealkbのボーカル、作詞を担当。jealkbの時の名前はhaderu(歯が出てるから)。2006年5月31日に『metronome』でインディーズデビューを果たし、インディーズチャート1位を獲得。2007年4月に台湾ライブを行って大成功した。

■現在CMの契約が無い事を気にしているらしい。

■2006年7月4日放送のロンドンハーツに於いて、鈍足を披露してしまう。その為、体力事に関しては亮に任せる事が度々有る。だがバスケはかなり上手い。小学校・中学校・高校までずっとバスケット部で中学校から高校にかけてはスポーツ推薦で受かったらしい。

■相方の亮の妻とプライベートで食事に行ったり、遊んだりしている。

■品川庄司の庄司智春にとても慕われている。

■2006年10月19日放送の『くりぃむしちゅーのたりらリでイキます!!』の"オーラの沼”のコーナーで、あ原啓之(有田哲平)のオーラ鑑定により、ライブドアの株式を大量購入していて強制捜査後の株価大暴落で多額の損失を出していた事が判明した。

■大のテレビゲーム好きでよくゲームセンターなどでゲームを楽しむ。2006年12月14日に渋谷のゲームセンターの店員と言い争いを起こし騒ぎとなり、店員に対して「テメエ、ふざけんなよ!」と怒鳴り散らした上にこづいて、「テメエ目つきが悪いんだよぉー」「おまえバカか」と面罵しまくった醜態を写真週刊誌「フライデー」撮られてしまった。吉本興業でもこの行為について認め、詳細は現在調査中としている。

■以前ほど出っ歯でなくなり、歯を治したようだ。

■DT浜田の新番「オオカミ少年」で ロンブー淳が母親と頻繁にメールしてることをばらされた 「台風大丈夫だった? 寒くなったから風邪ひかないように気をつけてね 親父にもよろしく言っといて」 こんな感じのメール、しかも絵文字入り 勝手にケイタイを見られあせりまくり 「どうやってダイアルロック解除した」 って叫び 「俺そんなキャラじゃない」 と恥ずかしがる、しまいには浜田に 「お前いい奴やん、キャラ違うやん、ええ子やん」といじられてた。

■実家が平屋。淳曰く「お父さんが一生懸命働いて立てた家」らしい。

■生まれてすぐに水ぼうそうにかかり、生死の境をさまよう。幼稚園では脱走癖アリ、泣き虫、やんちゃな子だったらしい。小学生の時運動神経抜群な子で、勉強もよくでき、6年生の時児童会長になる。(今でも人生の中で誇れる事は?と聞かれると児童会長になったことと、よく淳は言う)お城に興味を持ち始めたのはこの頃と以前言っていた。

■赤髪のきっかけ

赤髪になる前はオレンジ(高校三年で就職が決まったのにその会社が潰れてしまって、その次の日にした)、茶、銀、三毛猫(白茶黒が入り交じっている)など様々だった。赤髪になったきっかけは、関西の方で放送されていた『爆ロンブー』という番組で、自称占い師というおばちゃんに「髪を赤くしなければ、このままだとトラックの運転手になる」「淳君の頭赤くしたい」と言われた為に赤く染めた。あと、他にも淳は亮が金髪で目立ってるのに自分は黒で目立っていない!とずっと危機感を抱いていたみたいでその気持ちもあり赤髪へ。現在は赤髪のメージに飽きてしまい、脱赤髪イメージということでもずくんの曲を出す頃まで着々と少しずつ黒くしていき今では赤髪を見る機会がほとんど無い状態だった。淳曰くおめでたい席には赤くしているとのこと。(現に亮の結婚会見では赤髪だった。)

■淳と亮の出会い(淳的)

淳は高校時代『ふぐの助ふぐ太郎』という超アマチュアお笑いコンビをやっていた(淳はふぐの助)という名で、相方はふぐ太郎。)ラジオのFM山口に彼らのお笑いが放送されていたりしたらしい。この頃淳はバイトでウエイターをしていた、就職が内定していた地元の会社が倒産したため好きなことをやろうと決心。「ふぐ太郎」と共にお笑いタレントを目指して東京に上京する…が、いざ東京についてみると「ふぐ太郎」が東京をビビッて逃げ出した。淳はウィッツという事務所に所属…だがコンビを探すように言われるだけで仕事がないタバタさんというひげモジャのメガネをかけている人に出会いカラオケでお笑いのネタについて話をする…しかし、ネタが古すぎるため、後にタバタさんに自分と同じようにお笑いタレントを目指してるという、亮を紹介してもらったらしい。


【女性関係】
■女性タレントの藤崎奈々子と約5年間交際していた事がある。2004年に『ロンドンハーツ』の「格付けし合う女たち」に藤崎が出演し、交際当時の意外な素顔を暴露された。それ以降、藤崎本人がいないときでも『ロンハー』で藤崎のことがネタにされるようになった。また、藤崎以外にも様々な女性タレントや若手アイドルと浮名を流し、頻繁に週刊誌に載ったりしている。

■ナンパのターゲットは芸能人。携帯電話のメモリーには多くの女性芸能人の電話番号・メールアドレスが登録されており、今田耕司は彼のケータイをアイドル名鑑と形容している。また本人曰く、携帯メモリーは常に1000件に達しており、新たに登録する際には、連絡を取らない人のメモリーを一件削除してから登録する。

■今田耕司は後輩芸人に「(アイドルの)誰それが好き…」と恋愛の相談をされる事が有るが、大概そのアイドルは既に淳のモノになっている。このエピソードは、ロンブーが『やりにげコージー』にゲスト出演した回で当たり前の事の様に語られた。

■2005年12月20日の『ロンドンハーツ』で親と彼女以外の手料理が食べられない事を明かした。

■自身の女癖の悪さを、「十代の頃に年上の女性に裏切られた事への復讐」だと告白した。


●27時間テレビ「生マジオネア」「大かま騒ぎ」
■2004年7月24日放送『FNS27時間テレビ めちゃ×2オキてるッ!what A wide awake↑we are! 楽しくなければテレビじゃないじゃ〜ん!!』の「クイズ!生マジオネア(くいずなままじおねあ)」に淳が解答者として登場。そこで坂下千里子に4股をかけられていた事に関するクイズが出題された。「生マジオネア」の時点では坂下とは分からないように配慮されていたが、その後のコーナー「真夜中の大かま騒ぎ」で、極楽とんぼの山本圭壱から分かり易いジェスチャーにより暴露された。

■坂下との共演は近年無かったが、2005年4月1日の『笑っていいとも』にゲスト出演し、当時金曜日レギュラーだった坂下と共演。しかし2人が目を合わせる事は無かった。

■2005年7月23日・24日放送『FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!』内で再び行われた「真夜中の大かま騒ぎ」では、深津絵里に接近する為舞台を観に行ったりした事を後輩の庄司に暴露された。また若槻千夏にフラれた事も山本に暴露された。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20080117-00000009-sanspo-ent

田中 直樹

田中 直樹(たなか なおき、1971年4月26日 - )は、大阪府豊中市出身のお笑いタレント、俳優。お笑いコンビ・ココリコのリーダーで、ボケとネタ作りのほとんどを担当。相方は遠藤章造。


【プロフィール】
■外見上の特徴はクセ毛のセミ・ロングヘアー、しゃくれたアゴ、など。身長は181cm。長身で端正な顔立ちだが、あまり女性にはもてなかったらしい。

■血液型はO型。以前はAB型と公表していたが、血液検査をした際にO型だったことが判明。その後に出演しているテレビ番組で公表した。

■趣味は映画鑑賞。動物好きでも有名で、その中でも好きな動物はサイ。

■妻は小日向しえ。2003年6月に結婚し、2007年現在男児1児の父親である。

■視力は良くなく、コンタクトレンズを使用している。無名時代は黒ぶちの眼鏡を着用した姿でテレビに出ていたこともあった。

■苗字で呼ばれることが多いが、『ココリコミラクルタイプで共演している友人リリー・フランキーや、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』チーフプロデューサー菅賢治からは下の名前で呼ばれている(菅の場合は演出だが)。また、一部からはたーさんとも呼ばれている。


【デビューまで】
豊中市立豊島小学校、豊中市立第四中学校卒業。小学生の頃から野球を始め、中学では後に相方となる遠藤と同じ準硬式野球部に所属、副主将を務めた。ポジションはピッチャーだったが肩が弱く、それを見透かされないようにするためほとんど牽制球を投げなかったほどだったが、なぜかチームは強かった。今でも中学2年生に戻りたいと同窓会を開きたがることから、とても幸せだったことが窺える。

その後大阪府立桜塚高等学校に入学。気象衛星部に所属し、スポーツ・異性と無縁の青春時代を送った。高校卒業後はデザイン系専門学校に進学。在学中に当時サラリーマンを辞め無職だった、遠藤に誘われオーディションへ。見事合格し「ココリコボンバーズ」を結成。大阪出身だが吉本興業東京本社からデビューした。


【人物】
■独特な笑いのセンスは多くの先輩芸人から一目置かれる。『ガキの使い』のレギュラー入りも、前説を聞いた松本人志の即決によるもの。また、『ガキの使い』の七変化企画で当時最高の40,000円をたたき出したり、『ザ・ドリームマッチ05』でも三村マサカズと組んで優勝している。

■『ガキの使い』の共演者から「豊中の若ハゲガッパ」と指摘され続けていることから、頭髪の減りを気にしているようで、昔から続けていた坊ちゃん刈りをロングヘアーに変えている。

■意外と気の利かない一面や我儘な一面を『ガキの使い』で見せており、浜田雅功からよく叩かれている。

■一見礼儀正しそうに見えるが先輩などの誘いは平気で断る。中堅芸人が勢ぞろいしたドリームマッチの打ち上げでも唯一彼だけ帰った。

■老後は石垣島に住みたいらしい。

■NBAファンとして知られ、2006年にはNHK-BS1にコンビで出演した。特にミネソタ・ティンバーウルブズとケビン・ガーネットを熱心に応援している。

■ココリコミラクルタイプ内で結成された音楽ユニット時給800円に参加しなかったのは、歌が苦手だかららしい。

■モテていた相方の遠藤とは違い、結婚するまで異性と縁がなく、同じくモテなかったロンドンブーツ1号2号の田村亮とつるんでいた。中学時代、遠藤に恋愛相談をしたところ、数日後に意中の女の子が遠藤の彼女になっていたという悲惨な思い出がある。

■持ちネタは無いがめちゃイケ出演時に強引にやらされた(2007年4月14日放送)。即興で作った「6時2分」という両手を挙げ上半身を右にちょっと傾けるだけのシンプルなものだが意外と観客からは受け、同じく持ちネタのない岡村隆史からは「ええの見つかったやん自分」といわれた。


【ココリコ以外での活動】
■役者としても活動しており、こちらも定評がある。三谷幸喜監督の2001年公開映画「みんなのいえ」主演、2005年公開映画「逆境ナイン」の高校野球の監督役、2006年公開映画SIRENの島の医者役など。

■比較的口数が少ない役が多いが、その存在だけで笑いを呼ぶキャラクターは、シリアスなシーンを和ませるような雰囲気を持ち、既に1人の役者としての存在感を持っているとも評されている。

■相方の遠藤と比べ、1人でバラエティ番組に出演することは少ない。その中で、コンビでレギュラー出演していた「サタ☆スマ」の裏番組「わらいのじかん」の1コーナー「寝起きハイテンショングランプリ」に出演したことがある。その際、松本人志から「お前(田中)からSMAPの香りが漂うねん」と言われた。

■新感覚コントDVD『ペルソネル活動』を2006年10月から12月の間に5巻リリースした。そのときのインタビューの様子が「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されている。

(出典:Wikipedia)

ダウンタウン

ダウンタウン(DOWNTOWN)は、吉本興業所属のお笑いコンビ。

【メンバー】
■松本 人志 (まつもと ひとし)
・兵庫県尼崎市潮江出身
・1963年9月8日生まれ
・血液型B型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 兵庫県立尼崎工業高等学校卒業
・主にボケ担当。独特の間合いと個性の強いキャラクターで浜田曰く「松本がダウンタウン。おれはダウンタウンを紹介しているだけ」とのこと。3人兄弟の末っ子(二男)。愛称は「松ちゃん(まっちゃん)」・「まっつん」(学生時代の友人らが使い、浜田も昔はそう呼んでいた)。出演のみならず自らの番組の企画・構成も行い、ソロとしても「人志松本のすべらない話」「働くおっさん劇場」などのテレビ番組の出演や、短編「頭頭」、DVDオリジナルコント短編集「VISUALBUM」などを制作し、2007年には初の映画監督作品『大日本人』を発表するなど、クリエイターとしての多彩な活躍を見せる。結婚歴なしの独身。

■浜田 雅功(はまだ まさとし、本名:M田雅功)
・大阪市浪速区生まれ
・兵庫県尼崎市育ち
・1963年5月11日生まれ
・血液型A型うさぎ年
・1976年 潮小学校卒業
・1979年 大成中学校卒業
・1982年 日生学園第二高等学校卒業
・主にツッコミ担当。愛称は「浜ちゃん」・「ハマタ」・「はまちょん」「M君」(浜ちゃん以外は学生時代の友人らが使う)。妻は元オナッターズでタレントの小川菜摘。際だってメリハリのある突っ込みが松本のボケと好対照を成し、ダウンタウンの魅力の重要な要素となっている。ソロとしては、テレビドラマの出演や、バラエティ番組「ジャンクSPORTS」、「浜ちゃんと!」など、司会業を中心に活躍している。

【概要】
個性が強いコンビの為、熱心なファンを多く獲得している。松本のシュールなネタと独特の間合いは、「ダウンタウン登場以降、漫才のスタイルがダウンタウンのコピーになってしまった」といわれるほど、以後のお笑い芸人(特に師匠を持たない新世代の芸人層)に大きな影響を与えた。上岡龍太郎をして「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは二人とも客よりも高い位置で話をやってる。これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と言わしめている。

また彼らは自己の世界観を共有するスタッフと番組制作を行うことが多く、ブレーン的位置にいる高須光聖や、ミュージシャンとしても活動する倉本美津留らの放送作家陣は、彼らの成功に無くてはならない存在であった。番組に出る際は大抵浜田はカジュアルな服装で、松本はスーツ姿で臨む。

二人とも干支がウサギ年で、ウサギ年の人に出会うとしばしば手をウサギの手のようにして少し前に出て「我らウサギ団!ピョン!」というネタを行う。

【出会い〜結成まで】
松本が通っていた小学校に浜田が転校して来たのが最初の出会い。互いに第一印象は良いものではなかったが、中学2年のときに放送部で一緒になり友情を深める。当時はお互いに“ツレ”と呼ぶ“相方”がいて、思い思いに同級生間で漫才を披露したりで過ごす。別々の高校に進学の為に交流は一時期疎遠となったが、一度浜田が高校の寮を脱走し、わずかなお金で松本に電話をかけ2〜3日かくまってもらうがすぐに高校教師につかまってしまう。高校卒業後、競艇選手の試験に落ちた浜田が、中学卒業当時に冗談混じりに「漫才組まへんか」と言った言葉を、当時既に印刷工の就職が決まっていた松本に改めて諭し説得(松紳より)。これに松本が応じる。当初松本は藤山寛美の印象と自由にやれる環境を指向し松竹芸能を希望するが、浜田の猛反対に遭う。結果、吉本総合芸能学院(NSC)に一期生として入学。師匠を持たないいわゆる「ノーブランド世代」のはしりでもある。同期にはトミーズ、ハイヒール、内場勝則、浜根隆、前田政二などがいる。「松本・浜田」「まさし・ひとし」「てるお・はるお」「ライト兄弟」とコンビ名は変わりつづけたが、1983年に喫茶店で開いた雑誌に記載された「ダウンタウン」と言う文字から(さんまのまんま)決め、ようやく定着する。「ライト兄弟」の名は飛行機好きの横山やすしから「飛行機をバカにしとんのか」と否定された。

【結成直後】
「2人が向かい合うように立って声を張らずに喋る」という彼ら独自の一見ダラダラした漫才スタイルを取っていたのは、当時の吉本でも大木こだま・ひびき辺りしかいなかった。彼らはまず漫才を本格的にスタートさせるに当たり、以前より最も好きな紳助・竜介の漫才テープを繰り返し聴いていた。その後自分たちの個性に合ったスタイルとテンポに換骨奪胎する形で移行していった。

紳助自身は新世代漫才のあるべく姿を「間を減らしたテンポの早い16ビートの漫才」と見ており、それゆえダウンタウンの登場当初は、その遅いテンポの漫才を「面白いが、果たしてこれが商品として成功するのだろうか?」と疑問を持って見ていた。しかし太平サブロー・シローと紳助・竜介、ダウンタウンとの10日間に渡る花月共演の際、ダウンタウンの漫才の高度さを紳助曰く「ピカソの域に達している」と大きな衝撃を受け、自己の限界を感じてその足で吉本本社へと出向き、漫才を引退する旨を伝えたことは有名である(以上ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から)

紳助は記者会見でダウンタウンの名前を挙げたが、新聞では「紳竜解散! サブローシローらには勝てない」と書かれ、当時まだ無名だったダウンタウンはあえなく報道からカットされてしまった。しかしこの一件から、まだ他の誰もそれほど取り上げる存在ではなかった当時のダウンタウンを的確にその将来性を見抜いて見せた紳助に尊敬の念を抱くこととなり、ダウンタウンとのつきあいはここから特別なものとなった。

【vs横山やすしにみるダウンタウンの漫才への姿勢】
ライト兄弟時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)にて、家庭内暴力を奨励するネタをやり、司会の横山やすしが「八尾のチンピラが立ち話しでもしとんのか!」と一喝した事実がある。この一件について松本は、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それの何が悪い」と、また「テンポ・間合いばかりを重視してしまうと面白いものが生まれなくなってしまう」とやすしの漫才への姿勢を著書において批判した。ちなみにダウンタウンとして漫才活動は、ビデオ「ダウンタウンの流」を最後に封印している。

【漫才師】
以前松本は「漫才師」という古めかしい肩書きを嫌い、「スーパーギャグメッセンジャー」などと自称していたこともある。その後は「お笑い芸人」「コメディアン」とする事が多い。

現在の松本は「もう漫才をやらないんですか? と聞かれることが多いけど、やるとかやらない以前に僕には漫才師の血が流れてる」と「漫才師」という職業への愛情を語り、一方浜田は自身をタレントやお笑い芸人とは言わずに「漫才師」と称している。(「欽ちゃんの仮装大賞」に出演時の松本の肩書きは、「松本人志(27) 2名 大阪府 漫才師」であった。)

【ダウンタウンのスタイルを育んだもの】
余り語られることがないが、松本の著書に記述されている通り、松本が尊敬する喜劇人として挙げる松竹芸能の故藤山寛美の影響が伺える。相手をいらつかせる独特のテンポと間は確かに松本の原点であるとも見える。松本は手放しで藤山寛美を称え、現在でも時折藤山の映像を見直すと言う(著作より)一方1980年代の雑誌「宝島」のインタビューでは自分のお笑いの背景を語っており、その一つにラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下RGS)を挙げている。ダウンタウンは後に、東京進出前にRGSと共演も果たしている。

RGSが演じる、不条理で無意味性を押し出したシュールな世界は所謂「明確なオチのない笑い」であり、微妙で奇妙な空気でエンドになる事が多い。舞台を主な活躍の場としていた彼らは、一切媚びがなく観客を突き放すようなスタイルは東京においてすら一部のお笑いマニア層の話題に上る程度の存在であり、ビートたけしからとんねるずへ繋がる「表舞台」でのバラエティ番組黄金期にあっては、最後まで主流になる事はなかった。

どちらかと言えば関西のお笑いとは対極にあったRGSに松本が傾倒していた点は興味深い。同誌でも「大阪はお笑いの中心地のように言われているが、逆に言えばお笑いには保守的で、新しい物を受け容れず、オチが明確で無ければ絶対認めない風潮がある。早く東京でやりたかった」と語っており、自己の目指すスタイルがRGSに見られた不条理・シュールな世界であることを述べている。

このRGS的なシュールさと藤山寛美のリズムを持った松本に、中田カウス・ボタンの中田ボタンの出演に通いづめることでツッコミに磨きを掛けた「努力の人」(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)浜田が出会うことで、ダウンタウンの全く独自のスタイルが完成された。浜田の存在は、ダウンタウンの漫才を一見関西スタイルの典型的なお笑いとして受け容れやすくし、また松本の凶暴でシュールな笑い感覚も「オトン・オカン」と言った尼崎発のベタベタな庶民感覚でコーティングすることによって、多くの観衆に受け入れられるものとなった。

1980年代の初期ダウンタウンは松本はまだヒキキャラで、現在の様にキレるスタイルは無く、浜田もまたバラエティでも荒く雑な突っ込みや悪態が多く、失敗を重ね、番組中に謝罪を求められる事もあった。しかし松本は元々のセンスに加えて努力を惜しまない。世間が「ダウンタウンは浜田の突っ込みが凄いのだ」と言われると敢えて浜田抜きの番組と舞台やVTR作品に臨み(寸止め海峡やVISUALBUMなど)「松本は若手を使わないと面白くない」と言われると「一人ごっつ」や「松風」等で答えを出してみせる。一方浜田は舞台の客が若年層が多いことを当初気にして、客が笑っていても自分で納得できない舞台があるとカウス・ボタンのボタンの突っ込みを客席の端から凝視し学んだ事もあった。番組でも失敗した状況に似た場面が再度訪れると確実に修正をした形跡を見る事もある。

つまり「才能のある人物が努力を惜しまないコンビ」がダウンタウンのもう一つの姿である。

ちなみに、漫才をカジュアルな格好で演じるスタイルはダウンタウンが始めたように言われているが、中田カウス・ボタンが関西では最初である。

ダウンタウンの漫才そのものが、いわばチェンジアップである松本のボケを基盤としており、間をずらすことでリアリティを意図的に作り出すスタイルであった事を考えると、それがそのままガキの使いで即興的に行われるフリートークに移行していったことは、ごく自然の成り行きであると言える(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)。

また、芸人でありながらタレントの要素が求められた場合、その部分の大半を浜田が請け負う。 松本はゲストを呼ぶ司会業の時に、まず浜田がズケズケつっ込んでいくのを見定めてから「この人(ゲスト)はここまではイケるんや」と、松本自身がボケの目安にしており、その観点における力量は浜田に信頼を寄せているという(「松紳」2004年6月9日放映より)。 元来、見知らぬ人と接することが苦手である松本にタレント的な役割を与えてしまうと、本業のお笑いへの良からぬ影響が懸念される。しかし、それを浜田が一手に担うことで、松本本来のお笑いの才能が発揮できる環境を整える。これにより、単なるタレント業だけない本格的お笑いコンビ、ダウンタウンが成立している。

【吉本内での東京進出における勢力争い】
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い〜の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。


吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。


第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。


マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。

【エンターテイメント】
松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。

浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。


【戦友・ウッチャンナンチャン】
同世代の吉本芸人(ハイヒール、トミーズ、ジミー大西など)以外の芸人との絡みがほとんどないダウンタウンだが、東京進出後のダウンタウンが出演する最初の代表番組となった『夢で逢えたら』で共演したウッチャンナンチャンとは仲が良い。90年代前期まではダウンタウンとウッチャンナンチャンが一緒に仕事をすることもしばしばであった。また互いの番組に出演するということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号などで一緒になるときは楽屋が一緒だったとのことである。

芸歴ではウッチャンナンチャンがダウンタウンより3年後輩で、年齢もダウンタウンの方が1歳上であるにも関わらず、『浜ちゃん』、『松っちゃん』と呼ばれていて、浜田・松本の二人もウンナンの二人を呼び捨てにせず、「ウッチャン」「ナンチャン」と呼んでいる。その為か、ウンナン一派の出川哲朗(出川は学年こそ同じだが、後輩であるため、『松本さん』、『浜田さん』と呼ぶことが多い)や勝俣州和との仕事も多く、最近では『リンカーン』でさまぁ〜ずとも共演している(『笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ'06』で松本は三村とコントも行った)。逆にダウンタウン一派のココリコや山崎邦正なども『ウンナンの気分は上々。』に出演したりしていた。

近年では殆ど共演が見られない両組だが、2003年に開催された第3回M1グランプリでは松本と南原がお笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、めったに見られないツーショットとして、当時からのファンを喜ばせた。2006年度第6回M1グランプリ決勝戦でも、南原清隆と隣の席で審査員を務め、貴重な2ショットを見せた。また、ミュージシャンとして、内村はポケットビスケッツやNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!』に度々出演し、共演を果たしている。またプライベートでは、南原の子供が生まれた際や内村の結婚に際し、祝福のメールを送ったとされる。一方で2対2の共演は1998年放送の『いろもん』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に9年近くない。

ちなみに松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのは嫌」と評している。また、自身の著書で「ウンナンがおれへんかったら、ダウンタウンは(売れるのが)もう少し時間がかかったんちゃうかなあって思いますよ。」と語っている。


【コンビ愛】
浜田・松本の2人はプライベートではあまり親密ではないが、不仲というわけではない。HEY!HEY!HEY!番組中にも語っているが、そもそも漫才コンビは彼らに限らず仕事で毎日のように会うために、プライベートでわざわざ会う必要が殆どないだけである。松本は「浜田の家には結婚してから行ったことがない」(著書より)「浜田の息子は赤ん坊の頃に見たぐらいで、それからは会ってない」(「ガキの使い」内での発言)と語り、その逆も同じと思われる。またコンビの不仲説は人気漫才コンビにおいて良くある噂である。

ちなみにお互いの携帯番号すら知らないらしい。2人が携帯電話で話したのは、『ごっつええ感じ』で浜田が怒り狂ってロッカーを蹴り右足を剥離骨折したさい、スタッフから番号を聞き出した松本が浜田に電話した、そのただ一度きりである。松本の「わざわざ電話すんのとか恥ずかしいわ」 発言から、家族と改めて電話をするのが恥ずかしいのと同じような感覚であると思われる。

二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々と喋り続けてしまうらしい。それを日本テレビの特番が逆手に取り、楽屋にダウンタウンが二人きりになってしまうというシチュエーションが用意されたこともある。

その一方で抱き合ったり、キスしたり、キャッチボールをしたり、笑顔で2ショット写真を撮るシーンが一年に数回放映される(テレビカメラの前、しかも共演者に要望されての行動であるが)。特筆すべきはその時の二人には躊躇や照れがほとんど感じられない点で、特別な絆を感じられずにはいられないほどである。そのアツアツぶりは時として観客から赤面の悲鳴が上がるほどである。

松本は「覚えたくはなかったが、浜田の誕生日だけは覚えてしまった」と言い、一方の浜田も「松本と別れることがあったら俺はお笑いはしない。最高の笑いを見続けて来たから、他の笑いなんてできない」という発言もしている。二人がお互いのことを尊敬しあっているのは事実であろう。

最近では、昔ほど気軽に付き合えなくなった互いの関係を少し寂しく思っていることが、『ガキの使い』等のトークで垣間見えることがある。かつて二人のグアム旅行の日程がかぶってしまったことがあるが、その期間中ずっと松本は意図的に浜田との遭遇を避けていた。それを聞いた浜田が「なんで話しかけてくれへんねんな」と聞くと松本は「なんかそれは照れくさいじゃないですか」と答えていた。

また、たまに浜田が風邪をひくと松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来れなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった。(ウンナン・南原やココリコ・田中の証言より)

松本は独身であり、女性関係の話題には事欠かないが、スキャンダルになる事を松本本人以上に浜田が気にかけている節があり、松本がネタとして自身の女性関係の話題を出すと、「今そんな事話さなくていいやろ」と、本気でフォロー、あるいは窘める事がある。逆に、松本は浜田が自分の女性関係などの話を「お前は独身やからええやん」とズケズケとネタにすることについて、「俺がすんのはええけどお前から振るなよ」という不満を若干持っている模様。


【「笑い」に対する姿勢】
彼らを評価する際に、「体を張る」という点が上がることが多い。芸人として芸能界入りした者も、売れるようになると司会業等をそつなくこなし、やがて「芸人」というよりは「タレント」と呼ぶべき存在になることが極めて多い(松本が「心の師匠」と仰ぐ島田紳助などが好例である)。ダウンタウンの二人も売れるようになった90年代には後輩芸人を高い位置からえげつないほどいじることが多く、PTAなどから批判の対象にされる事が多かった。しかし2000年頃を前後していじられ役になる事が若手芸人以上に多くなり、自身の番組において、着ぐるみを被る、鼻フック、生卵を額で割る、熱湯をかけられる、バリカンで髪を剃られる、真冬に半裸で海水浴、そして『ガキの使い』において周知の、尻叩き等の過酷な罰ゲーム等を自身にも課したりなど、吉本興業を代表する日本のエンターテインメント界の大御所でありながら、まるで若手芸人のように体を張って笑いを作る姿勢は大いに評価されるところであろう。松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。


【略歴】
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。(普通にちゃん付けで呼びづらい雰囲気だったという)

小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)、「見た途端に気を失った。目を覚ましたら浜田が近付いてきて、また気を失った」など。また「小学校5年生にして彼女がいたというなんというハレンチな男であろうか」(『遺書』より)という報告もある。逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた(周りの人曰く、「校内で一番面白かった」)。浜田も当時からコンビを組んでいた。中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。

浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので尼崎のニチイの階段で頭を抱え悩む浜田に、松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。

卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。この頃の事は、松本自身も「地獄」と語るほど精神的に叩きのめされた時期であるという。1人暮らしする金もなく、実家から電車で劇場に通う(しかも支給された電車賃はなぜか源泉が引かれていた)生活は、父親からくどくどと嫌味を言われ、母親からは同期のトミーズやハイヒールと比較されるなどのたまらない状況だった。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。『4時ですよーだ』の平日の午後4時の帯や、NHK大河ドラマの裏である日曜8時の『ごっつええ感じ』などバラエティー不毛の時間帯の歴史を塗り替えてきたことが、そのままダウンタウン成功の歴史と符合している。

『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて吉本を代表するタレントとなり、現在に至る。

(出典:Wikipedia)

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